4年に一度のスポーツの祭典、オリンピックにかけた福井県ゆかりの歴代選手の物語を紹介する

1896 アテネ (ギリシャ)

1900 パリ (フランス)

1904 セントルイス (米国)

1908 ロンドン (英国)

1912 ストックホルム (スウェーデン)

1920 アントワープ (ベルギー)

1924 パリ (フランス)

1928 アムステルダム (オランダ)

1932 ロサンゼルス (米国)

1936 ベルリン (ドイツ)

1948 ロンドン (英国)

1952 ヘルシンキ (フィンランド)

1956 メルボルン (オーストラリア)

1960 ローマ (イタリア)

1964 東京 (日本)

「なんで」50年たっても思い出す

射撃ラピッドファイアピストル 落合 治さん
1960年ローマ大会、1964年東京大会
射撃ラピッドファイアピストル 落合 治さん
東京五輪の射撃ラピッドファイアピストルで的を狙う落合治=1964年10月19日、埼玉県の朝霞射撃場
 日本中が熱狂した1964年東京五輪。射撃ラピッドファイアピストルの落合治(88)=福井県越前市(旧今立町)出身、京都市在住=は、福井県勢で唯一、アジア初開催となる五輪の「ひのき舞台」に立った。60年ローマ大会から連続出場でもあった。だがその大舞台で「不発」というアクシデントに見舞われてしまう。「なんでやーって。50年以上たっても思いますよ」。耳栓代わりに詰め込んだ薬きょう越しに聞こえた「うわあ」という観客の声は、苦い感覚とともに今も鮮明によみがえってくる。(敬称略)

 本番3日前は絶好調だった。「ちょっと外れてもええな、くらいで撃ってるんやけど、(中心の)10点入るんや。不思議なもんでね」。神懸かった命中率に、アメリカの選手が「熱でもあるのか」と、おでこに手を当てに来た。「しもたなぁ、ちょっと早かったな」。予感は的中した。

 迎えた本番。25メートル先にある人型の的をめがけ、8秒間、6秒間、4秒間にそれぞれ5発撃つ。直前の試射は50点満点だった。アクシデントは「6秒射の4発目」に起きた。

 パン、パン、パン、カチン。

 発砲音も反動もなかった。ポケットに入れていた左手をゆっくりと挙げた。後ろにいる審判に「不発」を告げる合図。右手の銃を静かに下ろした。

 不発など、試合はもちろん練習でも経験したことはなかった。「何百発のうちの1発かね。こんなことあるんやなって。どうしようもないもん、不発はね」。動揺は隠せず、24位に終わった。
射撃ラピッドファイアピストル 落合 治さん
東京五輪のブレザーを手に思い出を語る落合=1月6日、京都市

ローマ大会での落胆

 高校を卒業した50年8月、創設された警察予備隊(のちの陸上自衛隊)に入隊した。「2年間行くと6万円の退職金がもらえると。当時は相当な額だった」。任期満了後に京都府警の警察官となった。

 警察の射撃訓練ですぐに頭角を現す。「予備隊で拳銃からバズーカ砲まで体験していたから、割と(的に)当たってね」。府警代表に選ばれて3年目、警察官の全国大会で個人優勝を果たすと、国際大会に派遣する強化指定選手に。全国から招集された精鋭の中、上位2人に残り、ローマ五輪代表の座を射止めた。

 だが、現地入りすると周囲の選手から「ジャパン、ノー!」と声が上がった。グリップが厚すぎるという。競技規則が変わっていた。監督と選手で街に繰り出し道具屋を探し、のこぎりで切った。「一番大事なところ。手に合うように調整してあったのに。がっくりしてもうたね」

鬼教官に

 ローマ35位、雪辱を期した4年後の東京で24位の結果に心残りはあった。33歳で「まだできる」との思いが「なかったとはいえん」。家庭を大切にするよう上司の勧めもあり、一線から身を退いた。“鬼教官”として警察学校などで指導に当たり、後輩を68年メキシコ大会に導いた。

 2020年東京大会には、半世紀ぶりに府警から選手の出場が濃厚になっているという。「(自分は)楽しいことはなかったけどね。出て良かったとは思う。結果は二の次。京都府警からオリンピックに出てほしいよ」。56年ぶりの祭典を心待ちにしている。

■落合 治 おちあい・おさむ 越前市(旧今立町)出身。武生高を卒業後、警察予備隊を経て京都府警に入った。1960年ローマ五輪35位、64年東京五輪24位。74年から親しむ尺八は、菊水流尺八道総範の腕前を持つ。竹号は月風。京都市在住。88歳。

⇒ 落合 治アナザーストーリー

東京五輪(1964年)

 日本は体操、レスリング、柔道や「東洋の魔女」のバレーボール女子など金メダル16個を獲得した。2004年アテネ大会と並び最多。花形の男子マラソンはエチオピアのアベベが史上初の連覇、円谷幸吉が銅メダルと健闘した。東海道新幹線や首都高速道路などのインフラや国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され、大会を見るためのテレビ普及など「オリンピック景気」に沸いた。閉会式では国籍、肌の色、宗教、貧富などさまざまな違いを超えた行進で「世界はひとつ」のメッセージを発した。

1968 メキシコ市 (メキシコ)

10代で五輪代表「ウルトラ少女」

体操 羽生 和永さん
1968年メキシコ大会、1972年ミュンヘン大会
体操 羽生 和永さん
段違い平行棒で美しい演技を見せる羽生和永=1968年10月、メキシコ国立公会堂(写真提供=フォート・キシモト)
 あどけなさが残る18歳、高校3年生の「ニューちゃん」が、堂々と演技した。1968年メキシコ大会に、羽生和永(69)=現姓笠松、福井県大野市出身=は日本体操界で初めてとなる10代で五輪に出場。日本勢最高の個人総合13位の成績で団体4位に貢献した。メディアは「ウルトラ少女」と喝采した。(敬称略)

大舞台でも堂々、電光掲示板は9.70

 得意で大好きだった段違い平行棒。仲間の演技は見ず、自分に入り込んで出番を待った。「大丈夫だから、大丈夫だから」と励ます先輩が逆に焦っているように感じるほど、落ち着いていた。

 当時最高のC難度の技が次々と決まる。巻き付き1回ひねりでフィニッシュ。時とともに記憶は少しずつ薄れていくが、電光掲示板に浮かんだ「9・70」だけは今もはっきり覚えている。

 五輪の重圧より「初めて海外で体操ができて、うれしい気持ちでいっぱい」だった。チャーター機で羽田を出発するときには、福井からも知人らが大勢駆け付け、垂れ幕を掲げて「行ってらっしゃ~い」と盛大に見送ってくれた。

猛練習、でも「パッと救われる」

 「(身長が)ちっちゃいんだから体操がいいんじゃないかな」。大野市下庄中学校(現陽明中学校)1年のとき、姉に背中を押されバレーボール部から体操クラブに移った。それが始まりだった。

 中学3年で県大会個人優勝に輝いた。定時制高校に入ると朝は肉屋でコロッケを揚げ、夜に授業に臨んだ。監督から怒鳴られるような厳しい指導だったが「うまくなるため」とくじけなかった。夏の合宿ではパン一つ、牛乳1本で猛練習に明け暮れた。練習後、宿題をしていると足がつり、ぼろぼろと涙があふれた。

 でも頑張った分だけ、できる技が増えていった。「感激、うれしい、大満足! それまでのことがパッと救われる」

 2年時にインターハイ、国体で団体・個人総合優勝と一躍国内トップ選手に躍り出た。3年時に目標としていた福井国体を跳び越え、達した舞台がメキシコ五輪だった。
体操 羽生 和永さん
「パリ五輪に送り出したい」と後進を指導する笠松和永(右)=2019年12月、愛知県長久手市の笠松体操クラブ

だって体操が大好き

 五輪とともに人生を歩んだ。連続出場となった72年ミュンヘン大会では自身のけがや、主要メンバーが故障明けだったこともあり団体7位。だが、交際中だった夫の笠松茂(72)がメンバーに入る男子団体が金メダルに輝いた。「男子メンバーはみんな競争心があり、個性的で素晴らしかった。もちろん主人が1番だけど」
 茂は金メダル筆頭候補だった76年モントリオール大会を虫垂炎で競技直前に欠場。その日に、長男昭宏(43)が生まれた。昭宏は2000年シドニー五輪で団体4位、03年アナハイム世界体操で団体銅メダルの成績を残した。

 今は愛知県長久手市の「笠松体操クラブ」でヘッドコーチを務める。昭宏が代表、茂は顧問だ。

 ある大会で、昭宏の指導する男子選手が、和永が送り出した期待の女子選手を上回る成績を残した。「息子に(指導で)負けて、悔しくって」。指導で声を出すために1年ほど前からボイストレーニングにも月3回通う。24年パリ大会に教え子たちを送り出すのが目標。「すごく楽しい。だって体操が大好きなんだもの」

■羽生 和永 はにゅう・かずえ 現姓笠松(かさまつ)。大野市下庄中―福井女子(現啓新)高、武生高定時制、東京・駒場高―日体大卒。福井女子高体操部が廃部となったため、入学1カ月で武生高定へ転校した。1968年メキシコ五輪に出場し団体4位、個人総合13位。72年ミュンヘン五輪では個人総合43位だった。現在は体操クラブで主に女子選手を育成している。名古屋市在住。69歳。

メキシコ五輪(1968年)

 日本はサッカー男子で釜本邦茂らを中心に、アジア勢初の銅メダルを獲得。体操男子団体は3連覇を果たした。優雅な演技で「五輪の名花」と呼ばれた体操女子のチャスラフスカが、1964年東京大会での3個を上回る4個の金メダルを獲得。母国チェコスロバキア(当時)の民主化運動「プラハの春」を支持し、参加さえあやぶまれた中での快挙だった。陸上男子200メートルで金メダルのスミス、銅メダルのカーロス=ともにアメリカ=が表彰式で黒い手袋をはめた拳を突き上げる黒人差別への「無言の抗議」を行った。

1972 ミュンヘン (西ドイツ)

1976 モントリオール (カナダ)

1980 モスクワ (ソ連)

逆転でつかんだ切符が幻に

体操女子 日向 由佳さん
1980年モスクワ大会
体操女子 日向 由佳さん
モスクワ五輪代表最終選考会で跳馬に挑む日向由佳=1980年5月3日、福井市の福井県営体育館
 政治に翻弄(ほんろう)された五輪があった。西側約50カ国がボイコットした1980年モスクワ大会。体操女子日本代表の16歳、武生高校定時制2年の日向(ひなた)由佳(56)=現姓竹内=もその渦中にいた。選考会の最終種目、逆転でつかんだ代表切符は、わずか3週間後に“幻”となった。(敬称略)

世界初の大技

 1980年5月3日、福井市の福井県営体育館で開かれた代表選考会は、10位で最終日を迎えた。代表入りの上位6位へ、自信があった。胸に手を当て念じた。「全然大丈夫」。段違い平行棒、平均台、床運動を終え0・5点差の7位と猛追した。

 最終種目は跳馬。前を見据え、助走スピードを上げる。体をひねりながら飛び込み両手をつく。次の瞬間、きりもみ回転しながら着地へ。

 2分の1ひねり前転跳び2回ひねり―。

 世界で初めて挑んでいた大技だ。やや着地が乱れるも、しなやかに腰をそらし両手を挙げた。失敗にもかかわらず「8・90」。逆転で6位に入り、安堵(あんど)の笑顔が広がった。

12歳で札幌から福井へ

 4歳から「体操をやりたい」と言い続けていた。宙返りして布団に飛び込んだり、逆立ちしたり。小学4年で体操教室に入った。札幌の中学の名門新体操部で1年生にして北海道3位になった。

 福井であった体操の全国大会に補欠で帯同。紹介された器械体操の指導者の前でバック転を披露した。「うちにおいで」。12歳で単身、「日本のどこにあるかも知らなかった」福井への転校を、その場で決めた。

 既に「体操王国」だった福井。周囲は幼少期から体操に打ち込んできた選手ばかり。「自分は何にもできない」と思い知らされた。仮病で学校を休み、入院したこともあった。弱気になった日向に両親は「すぐに帰ってくればいいから」。

 叱咤も激励も無かったことで「逆に、スイッチが入った」。練習で監督の目の前の平均台を使うなど猛アピールした。休みは正月の3日間だけ。中学2年から毎年全国大会に出場し、高校1年で世界の舞台に立った。

 五輪選考が迫ると練習しても足りない気がした。「もっと痩せなきゃ」。過度な食事制限で選考会1週間前に栄養失調で倒れた。だから、代表に決まっても「ほっとした、しかなかった」。

体操女子 日向 由佳さん
京五輪マラソン競技会場となる札幌市の大通公園で「五輪との不思議な縁を感じる」という竹内由佳=2月13日

ようやくリセット

 選考会から3週間後の24日。代表合宿中だった東京の体育館に体操協会の役員が顔を出した。「日本はボイコットになりました。オリンピック合宿は今、ここで解散します」。全員がぼうぜんとしていた。モスクワ大会で成功すれば「ヒナタ」と命名されたはずの、選考会で跳んだ大技も、幻と化した。

 日本体育大学に進みインカレには出場した。だがロサンゼルス五輪を目指す気持ちにはなれなかった。辛うじて体育館に行く日々。大学2年で競技から身を引いた。

 それから30年以上、胸の中にしまい込み、話題に触れずにいた。「不思議と、気持ちがリセットできた」のは、2度目の東京大会が決まってから。今は元五輪選手としての活動にも積極的だ。

 児童対象の教室で語りかける。「夢や目標に向かって、強い気持ちで思い続けて」。幼き日の自分のように。

■日向 由佳 ひなた・ゆか 現姓竹内。札幌市中央区出身。北星学園女子中学高等学校―武生一中―武生高定―東京・国学院高―日体大卒。80年モスクワ五輪代表。世界選手権は79年、81年の2大会に出場した。中学1年の10月、体操をするため福井に転校。モスクワ五輪代表を決めた直後、より競技に集中できる強豪の国学院高へ移った。現在はスポーツトレーナーやセレクトショップ経営、札幌家裁青少年育成の講師など多彩に活動している。札幌市在住。56歳。

⇒日向 由佳アナザーストーリー

モスクワ五輪(1980年)

 1980年モスクワ大会は、ソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議する米国の主導で日本を含む西側約50カ国がボイコットした。84年ロサンゼルス大会はその報復として、ソ連など東側16カ国が参加せず「ボイコット合戦」となった。このほか76年モントリオール大会では、アパルトヘイト(人種隔離)政策を続ける南アフリカにラグビーチームを派遣したニュージーランドが五輪に参加したことに反発し、アフリカの22カ国が不参加となった。

1984 ロサンゼルス (米国)

勝って当然、「史上最低の銅メダル」

バレーボール女子 三屋 裕子さん
1984年 ロサンゼルス大会
バレーボール女子 三屋 裕子さん
ロサンゼルス五輪の女子バレーボール3位決定戦のペルー戦でスパイクを放つ三屋裕子(右から2人目)=1984年8月、ロサンゼルス
 悪夢の五輪ボイコットから4年。バレーボール日本女子の主力に成長した三屋裕子(61)=福井県勝山市出身=は、1984年ロサンゼルス大会で念願のコートに立ち、センターとして躍動した。だが結果は「史上最低の銅メダル」。悔しさとともに、熱気に圧倒された感動が深く心に刻まれた。(敬称略)

雪深い福井で決意

 「竹の子族」が流行した1980年5月。2カ月後のモスクワ五輪メンバー12人を発表したばかりのバレーボール女子日本代表に衝撃が走った。日本が大会をボイコットする―。エース横山樹理率いるチームは金メダル確実と言われた。東西冷戦を背景にした不出場に「全員がぼうぜんとしたのを覚えている」。

 当時は筑波大学4年。前年10月に代表に呼ばれ、毎日9時間の練習に耐えた。キューバ遠征中に足首を脱臼する大けがも乗り越えた。「どれだけ努力しても、かなわないことがあるんだ」。悲劇だった。

 競技を離れて体育教師になろうか―。年末、勝山に帰省した。「『五六豪雪』で誰も訪ねてこない。静寂の中で将来を考え、(五輪出場の)夢を追うと決めた」。強豪日立に入団。天才セッター中田久美(現女子代表監督)らと快進撃を続けた。

中国に完敗、「終わるんだな」

 日本女子代表は、84年のロサンゼルス大会前年に絶頂期を迎える。アジア選手権で五輪切符をつかむと、出場を決めていた世界女王中国と決勝で激突。「鉄のハンマー」と呼ばれた郎平(ろうへい)との打ち合いをストレートで制したこの試合を「人生のベストマッチ」に挙げる。五輪開幕まで、対戦するたびに「宿敵同士。バッチバチにやり合った」。

 期待された本番は準決勝でその中国に完敗する。マッチポイントを取られ、日本のブロックが大きくはじいたボールを目で追った。「これで終わるんだなって。長く感じた」。3位決定戦でペルーを破ったものの、過去4大会は金か銀。「悔しい銅メダルだった」。帰国後の会見で江上由美主将は開口一番、「すみませんでした」と頭を下げた。

 日立入団時に「あと4年だけ」と親と約束していたバレーボールから引退。国学院高校(東京)の体育教師として、第2の人生を歩み出した。

バレーボール女子 三屋 裕子さん
「史上最低の銅メダル。悔しかったなあ」とロサンゼルス五輪を笑顔で振り返る三屋=1月7日、東京都の日本バスケットボール協会

五輪のパワーを実感

 楽しい記憶も多い。開会式では「見たことがない数の人の大歓声。日の丸が見えるとうれしかった」。選手村では陸上4冠を達成したカール・ルイス(米国)の姿も。「こっちは緊張しっぱなし。話し掛ける余裕はなかった」と苦笑する。

 帰国前にマスコットにちなむ土産物を買おうにも選手村は売り切れ、「イーグルサムがない」と選手みんなで大慌てした。街に出てTシャツなどを調達すると、今度は飛行機に持ち込む荷物20キロに収まらない問題が発生。「どうしようもなくて…。日本のユニホームを置いて帰った」

 開催地の盛り上がりはすさまじく、五輪のパワーを実感した。ただ「五輪自体が幸せを運んでくるわけではない。新しいスポーツ文化をどう生み出すかが大事」と今、振り返って思う。「福井などの地方もやり方次第で若者を呼び込めるチャンス」とも考えている。

 福井県勢初のメダルを獲得したロサンゼルス大会から36年。今は日本バスケットボール協会長の立場で2020年東京五輪に全力を注ぐ。開幕まであと半年を切った。「バスケットボール旋風を巻き起こしたい」。決意がみなぎる。

■三屋 裕子 みつや・ゆうこ 福井県勝山市出身。勝山中-八王子実践高-筑波大-同大大学院修了。大学3年時の1979年に全日本入り。日立に進み、84年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得した。直後に教職の道へ転身。Jリーグ理事などを経て日本バスケットボール協会会長。東京都在住。61歳。

⇒ 三屋 裕子アナザーストーリー


躍進も落胆も「結果はプロセスの答え」

陸上400メートル障害 吉田 良一さん
1984年ロサンゼルス大会、1988年ソウル大会
陸上400メートル障害 吉田 良一さん
ロサンゼルス五輪の陸上男子400メートル障害予選で50秒24をマークし、準決勝進出を決めた吉田良一(右)=1984年8月3日、米ロサンゼルスのメモリアル・コロシアム
 19歳が飛躍した。ふわり、ふわりとハードルを越えていく。1984年ロサンゼルス大会の陸上男子400メートル障害。順天堂大学2年の吉田良一(55)=北陸高校出身=は準決勝に進み、世界で16強入りする快挙を成し遂げた。「また五輪舞台に立ちたい。次こそ決勝」と熱い気持ちになった。だが4年後、ソウルの五輪舞台に再び立った吉田は、大きな落胆を味わうことになる。(敬称略)

弾む19歳、一気に準決勝

 「ロケットマン」が空から舞い降りた開会式に感動した。開会宣言の途中で言葉に詰まった400メートル障害王者のエドウィン・モーゼス(米国)に「雲の上の存在だった人も緊張するんだ」と親しみがわいた。ロス大会は、すべてが輝いて見えた。

 人生初の海外レースが五輪。「世界がどういうレベルか分からなかったし、精いっぱいやるだけ」。高校から2年足らずで0.8秒もタイムを伸ばした若武者は、勢いに乗っていた。

 予選、準決勝とも好調で「ぴょんぴょんと体が弾んだ。自分の勢いをハードルが止めている感じだった」。準決勝で敗れはしたが自己タイの49秒92が出た。

孤独な練習

 ロス大会後も好調だった。86年アジア大会で49秒40の日本新記録で銀メダル。順大を卒業し、就職で福井に戻った87年のユニバーシアード夏季大会(クロアチア)は自身の日本記録を更新する49秒20で銅メダル。ローマでの世界選手権は準決勝に進み再び世界の16人に残った。

 決勝ラインに残るなら、あと0.5秒縮める必要があった。縮められる自信はあった。だが福井での練習は孤独だった。職場の理解、周囲の支えの中、試行錯誤を繰り返したが、大学時代の練習や強化合宿で学んだことを書き留めたノートを頼るしかなかった。

 世界選手権から1カ月後、右すねの疲労骨折が分かった。「でも休めなかった」。何事も手を抜けない性分がオーバーワークとなったのか。股関節、腰を痛め、肉離れも重なった。「スタートラインに立てるかも不安だった」88年日本選手権を制しソウル五輪切符を手にしたが、タイムはベストとはほど遠い51秒台。ソウル大会はスタートから出遅れ、結果は予選敗退だった。
陸上400メートル障害 吉田 良一さん
北陸高校生徒に走りのフォームを指導する吉田良一(中央)=1月、福井市の同校

必ず残るもの

 「結果がプロセスの答え。自分でやったつもりでも、予選落ちなら予選落ちのプロセスしか歩んでいなかったということ」。感動の連続だったロスとは対照的に、ソウルでは落胆を味わった。相反する思いを、オリンピアンとして経験し「人生の大きな支えになっている」。

 足羽高校に赴任した93年から指導に専念。現在は北陸高校監督として、部員には練習を無理強いせず、考えさせることを重視する。「決めた目標への歩み方は、いろいろある。それは絶対に自分に残る。結果にかかわらず、その大切さが伝わったときがうれしい」

 30年近い指導で、別の視点から競技を見られるようになった。「選手がどのようなプロセスを歩んできたのか。思いをはせるのが楽しみ」

■吉田 良一 よしだ・りょういち 福井市松本小―進明中―北陸高―順大。陸上男子400メートル障害の元日本記録保持者。1984年ロサンゼルス、88年ソウル五輪に連続出場した。日本選手権を5度制し86年アジア大会で銀メダル。87年世界選手権は準決勝に進出した。福井運動公園事務所、足羽高教員を経て、2016年から北陸高教員。陸上部顧問。福井市。55歳。

⇒吉田 良一アナザーストーリー


外角低めの直球、金メダル導く

野球 伊藤 敦規さん
1984年ロサンゼルス大会
野球 伊藤 敦規さん
ロサンゼルス五輪の野球で金メダルを獲得した伊藤敦規(後列の背番号15)ら日本代表。広澤克実(背番号10)の姿もある=1984年8月、米国・ロサンゼルスのドジャースタジアム(伊藤さん提供)
 野球の五輪日本代表が唯一金メダルを獲得したのは、公開競技として行われた1984年ロサンゼルス大会だ。1次リーグ第2戦。先発マウンドに上がったのは福井工業大学のエース伊藤敦規(56)=愛知県出身=だった。右横手から投じた第1球の直球が外角低めに決まる。「きょうは勝てる」と確信した。マウンドで躍動、1次リーグ突破に導き、日本のメダル獲得へ勢いをつけた。

頭になかった五輪代表

 米国で7月に行われる日米大学野球に向け、東京で代表合宿をしていたある日、伊藤は広澤克実(当時明治大学)ら5人と一緒に監督に呼ばれた。前夜に門限を破ったことを怒られると思った。

 「大学野球の後、そのまま米国に残ってもらう」。突然、五輪代表入りを告げられた。五輪のことは頭になく、ただ驚いた。

 日米大学野球が終わると、伊藤らは社会人選手とロサンゼルスで合流。五輪日本代表と初めて顔を合わせた。監督は「鬼監督」の異名を持つ松永怜一。急造チームを仕上げるため、連日猛練習を課し、五輪開会式当日も地元チームと練習試合をした。伊藤は練習や練習試合を通して好調で、松永から1次リーグ第2戦のニカラグア戦での先発を指名された。
野球 伊藤 敦規さん
ロサンゼルス五輪で使用したグラブを手に当時を振り返る伊藤敦規さん。1次リーグのニカラグア戦は「初球、ストライクが決まった時に『よし、いける』と思った」と語った=2月、愛知県内の自宅

初球で手応え

 初戦で韓国に勝ち、ニカラグア戦では1次リーグ突破が懸かっていた。「周りを見る余裕があったし、緊張はしていなかった」。初球、捕手が構えたのは外角低め。「一番自信のあるボールでいく」と試合前に決めていた直球。キャッチャーミットにズバンと収まった。

 「初球、ストライクが決まった時に『よし、いける』と思ったのは確かですね」。なぜかは自分でも分からない。7回を投げ散発4安打7奪三振、無失点で勝利投手に。試合内容は詳しく覚えていないが、初球の手応えだけは、今もしっかり残っている。

データでも貢献

 決勝で対戦した、開催国の米国は、マーク・マグワイア(元カージナルス)ら後に大リーグで活躍するスター予備軍がそろい、金メダルが有力視されていた。日本にとって難敵だったが、この大舞台で伊藤ら“大学組”の存在が大きく生きた。米国代表は日米大学野球メンバーだったからだ。

 「マグワイアはインコースが打てないですよ。ただ甘い変化球は絶対にダメです」。対戦してつかんだ打者のデータや印象をチームに伝えた。

 6-3。優勝が決まると、伊藤はマウンド上で歓喜の輪に加わった。表彰式で君が代が流れ、日の丸が掲げられた。「強い米国を倒しての金。最高でした」

 「五輪に出場できたことは大きかった」。野球に対するトップレベルの考え方や技術を学び、プロ入りを意識するようになった。五輪の経験が、後にプロ野球の阪神でリリーフとして活躍する礎となった。

 東京五輪ではプロ野球のトップ選手が日本代表として出場する。「金メダルを取れる力はある」。歓喜の瞬間を心待ちにしている。

 ■伊藤 敦規 いとう・あつのり 愛知県出身。中京高―福井工大卒。1984年ロサンゼルス五輪では1次リーグのニカラグア戦とカナダ戦で先発し1勝1敗。大学卒業後、社会人野球の熊谷組を経て87年にプロ野球・阪急にドラフト1位で入団。96年オフに阪神に移籍すると中継ぎへ転向。99年からは野村克也監督の下、遠山奬志、葛西稔の両投手らとともに救援陣としてチームを支えた。2000年には自己最多の71試合に登板した。02年に現役引退。05~19年に阪神でコーチを務めた。愛知県在住。56歳。

ロサンゼルス五輪(1984年)

 4年前のモスクワ五輪はソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議する米国の主導で日本など西側諸国がボイコット。ロサンゼルス大会はその報復措置として、ソ連など東側諸国が参加を取りやめた。米のカール・ルイスが100メートル、200メートル、400メートルリレー、走り幅跳びの陸上4冠を達成。日本は柔道の山下泰裕、鉄棒の森末慎二らが10個の金メダルを獲得した。この年には食品会社を標的にした「グリコ・森永脅迫事件」が発生した。

1988 ソウル (韓国)

夢の舞台、開会式で燃え尽きた

ハンドボール 山本 興道さん
1988年ソウル大会
ハンドボール 山本 興道さん
ソウル五輪ハンドボール予選リーグ第3戦のハンガリー戦で会場入りする山本興道(3)=1988年9月24日、韓国・水原体育館
 「今思えば、開会式で燃え尽き症候群になってしまったんでしょう」。ソウル五輪イヤーの1988年、ハンドボールの山本興道(59)=福井県福井市出身=は、すこぶる体調がよかった。だが、活躍を期待された右サイドのサウスポーは、出場5試合で4得点と不完全燃焼に終わった。夢にまで見た祭典の現実は、理想と懸け離れたものだった。(敬称略)

代表発表、泣き出す選手も

 ソウル大会は、男子日本の5大会連続(モスクワ大会はボイコット)出場は確実視されていた。だが87年、ヨルダンで行われたアジア最終予選最終戦のクウェート戦は予想外の展開になった。

 日本優位に進んだゲームは、中盤から審判の判定が変わった。「こちらがリードしそうになると、すべて相手の有利に働いた。ラインを踏んでもいないのにラインクロス判定。まさに『中東の笛』でした」。2点差で五輪切符はつかんだが「負けも覚悟した」。

 代表メンバー発表は、旧ユーゴスラビアでの最終合宿の最終日にあった。選手全員を前に監督が1人目の名前を呼ぶ。「はい」と選手の返事。その瞬間「アウト」。監督は外れるメンバーの名前を呼んでいた。選手は静まり返った。自身はメンバー入りしたが「泣く選手もいてね。あの発表は残酷だったよ」。

五輪への思いが裏目に

 迎えた本番。直前練習では自身が驚くほど、動きに切れがあり「絶好調だった」。だが予選リーグ初戦の東ドイツ戦は、7メートルスロー2本を含む3得点、次戦のスペイン戦も1得点止まりだった。

 コーチに相談した。選手村で走り込んだ。部屋で瞑想(めいそう)もした。わらにもすがる思いで、もがいた。以降3試合は無得点。6位入賞が期待された日本は12カ国中11位に終わった。「『結果を出すんだ』よりも、『行くんだ』という気持ちが強すぎた。開会式で入場した瞬間、頭が真っ白になり、いつの間にか整列していた。振り返れば、そこで終わっていたんでしょう」

ハンドボール 山本 興道さん
日本代表のユニホームやジャージーを広げ、懐かしむ山本興道=埼玉県川越市

快進撃、後輩に託す

 中学までは野球部。北陸高校ハンドボール部監督の志々場修二(現総監督)の熱い誘いで競技に出合った。同校初の全国総体出場を果たし、大阪体育大学ではインカレを制した。日本リーグ大崎電気でも主将を務めた。ただ、けがが多かった。持病の腰痛、膝の半月板損傷、アキレス腱断裂…。いつしか「ガラスのエース」と呼ばれていた。

 ソウル大会後の12月、全日本選手権の優勝で現役を引退。膝が限界だった。コーチや監督を歴任し「自分勝手に想像せず、臨機応変に対処する大切さを教えた」と経験から学んだ教訓を伝えた。

 2000年にチームを離れ、仕事の傍ら、公認審判A級を取得。国内4大タイトルの一つ、全日本実業団大会の決勝で笛を吹くなど、40代中盤まで競技に携わった。

 東京五輪は男子準決勝のチケットが手に入り、久々の観戦を楽しむ。日本代表候補には高校、大学、実業団の後輩、柴山裕貴博が名を連ねる。「ぜひ活躍してほしいね」。32年前に果たせなかった完全燃焼。同じ右サイドのサウスポーを自身の姿と重ね合わせ、快進撃を信じる。

■山本 興道 やまもと・こうどう 福井市出身。東安居小-光陽中―北陸高―大体大。日本リーグの大崎電気では主に右サイドで活躍し主将も務めた。1984年、日本代表に初選出され88年ソウル五輪出場。引退後は大崎電気でコーチ、監督を務めた。183センチ。埼玉県川越市在住。59歳。

⇒ 山本 興道アナザーストーリー

ソウル五輪(1988年)

 1964年東京五輪に続くアジアで2度目の夏季五輪。12年ぶりに米国とソ連が参加するなど、過去2大会ボイコットを繰り返した東西両陣営が集った。160カ国・地域から約1万3600人の参加は当時史上最多。日本は競泳男子100メートル背泳ぎで鈴木大地が優勝するなど4個の金メダルを獲得。陸上男子100メートルでベン・ジョンソン(カナダ)が当時の世界新記録で制したが、ドーピング検査で陽性反応が出て金メダルを剥奪された。

1992 バルセロナ (スペイン)

1996 アトランタ (米国)

2000 シドニー (オーストラリア)

2004 アテネ (ギリシャ)

満を持したアテネで、まさか

ライフル射撃 三崎 宏美さん
2000年シドニー大会、2004年アテネ大会
ライフル射撃 三崎 宏美さん
アテネ五輪ライフル射撃女子10メートルエアライフル立射予選に臨む三崎宏美=2004年8月14日、マルコプロ射撃センター
 2004年、聖地アテネ。開会式翌日のライフル射撃10メートルエアライフル立射に臨んだ三崎宏美(43)=現姓西本、福井県福井市出身=には日本のメダル第1号の期待がかかっていた。世界ランキング2位。金メダルは射程内のはずだった。ずぬけた感覚の鋭さが逆にあだになったと言うべきか。シドニー五輪に続いて、本番直前の修正がメダルはおろか決勝進出さえ阻んだ。悔しさは残った。だが、二つの五輪を通じた“世界のミサキ”への成長は、かけがえのないレガシーとなった。(敬称略)

突然、審判から修正要求

 初出場の2000年シドニー五輪。前日練習の時、銃の検査で審判委員(ジュリー)から肩にあてるプレートの角度の修正を求められた。W杯でも指摘されたことはなかった。即座に修正したが「自分の体にピタリときている角度を動かしたので、違和感がすごかった」。

 微修正だったが、三崎の射撃を狂わせた。本番の第3シリーズ3発目。直径0・5ミリの標的の中心から左にわずかにそれた。得点は満点(10点)中8点。「4年間頑張ってきて8点? みたいな。がっかり感はすごかった」。世界水準ではたった1発が致命傷だ。三崎は決勝進出を逃した。

次こそ、世界ランク2位に

 「シドニーのふがいなさを消したい」。帰国後、アテネ大会に向け始動した三崎はメダル獲得のため一つの目標を掲げた。「世界レベルの大会で誰が優勝するのだろうという話題になった時に、必ず自分の名前が挙がるようになる」

 理想のフォームを追求し体幹も鍛えた。さらに、銃と体との相性や重さのバランス、引き金の形状など、微に入り細をうがち理想へと近づけた。  2004年。世界ランキングは2位にまで上がる。「メダルに絶対的な自信があった」と雪辱の時を迎えた。
ライフル射撃 三崎 宏美さん
「やることをやって挑んだアテネ五輪は充実感があった」と語る西本宏美=2月、福井県福井市の県立ライフル射撃場

でも、充実感は違う

 アテネに着いて三崎は驚く。開幕前日まで工事が続いていた。突貫工事で完成した会場は、選手がビー玉や指輪を床に置くとコロコロと転がった。コンクリートを流し固めただけのような射座は完全な水平ではなかった。「平衡感覚がおかしくなった」。銃を構えると、体が後ろに引っ張られるような感覚さえ覚えた。  三崎の強さの一つに感覚の鋭さがある。平らでない射座は、鋭敏な三崎を苦しめた。競技が進むにつれ気になり撃つタイミングがずれた。第2シリーズは96点、第4シリーズは97点。得点を伸ばせず22位。またもや、まさかの予選敗退だった。

 振り返ると「期待し過ぎたのかな、自分で自分のことを」とも思う。気付かないうちに重圧を感じていたのかもしれない。だが、三崎は「ただ出るだけだったシドニーと、やることをやって挑んだアテネでは全然違う」と感じている。消化不良ではあったけどアテネには充実感があった。

 2013年に現役を引退した。現在は所属企業で五輪を目指す後進を指導する傍ら、福井県内の選手にも一流の技術を伝える。「メダルを目指して高めた技術を後輩に託したい」。その思いはいつか後輩が受け継いでくれるはずだ。

■三崎 宏美 みさき・ひろみ 福井市和田小―成和中―足羽高、日本大卒。姉の影響で高校入学とともに競技を始めた。2000年のシドニー五輪では10メートルエアライフル立射15位、ライフル3姿勢37位。04年のアテネ五輪では10メートルエアライフル立射が22位、ライフル3姿勢は24位だった。現在は勤務する日立システムズで所属選手を指導している。横浜市在住。43歳。

アテネ五輪(2004年)

 ギリシャの首都アテネで五輪が開かれたのは1896年の第1回大会以来、108年ぶり2度目。競技施設建設などが計画より大幅に遅れ、開幕直前まで工事が続く施設が相次いだ。柔道男子60キロ級で野村忠宏が前人未到の3大会連続金メダルを獲得。競泳男子の北島康介は平泳ぎ100メートル、200メートルで2冠。「チョー気持ちいい」は流行語大賞に選ばれた。

2008 北京 (中国)

全日本を16年ぶりの五輪に導いた男

バレーボール男子 荻野 正二さん
1992年バルセロナ大会、2008年北京大会
バレーボール男子 荻野 正二さん
北京五輪男子1次リーグ初戦のイタリア戦でスパイクを放つ荻野正二=2008年8月10日、北京理工大体育館
 右腕で打ち込んだスパイクが決まると、満席の東京体育館は歓喜に沸いた。2008年の北京五輪世界最終予選。バレーボール男子日本が4大会ぶりの五輪切符をつかんだ。決勝点を挙げたのは当時38歳の主将、荻野正二(50)=福井県若狭町出身。「何度も引退を考えた。ほんまにほっとした」。メンバーで唯一、前回出場の1992年バルセロナ大会を知る男は、積年の悔しさを晴らし、ぼろぼろと涙をこぼした。(敬称略)

 92年バルセロナ五輪は主将の植田辰哉、現日本代表監督の中垣内祐一(藤島高校出身)らと出場し6位入賞に貢献した。しかし96年アトランタ五輪アジア予選で「人生最大の挫折」を味わった。福井工大福井高からサントリーに進み、ウイングスパイカーとして脂が乗ってきた時期だった。

 2戦ずつの総当たりで競う予選は韓国、中国との初戦をストレートで勝利。圧倒的優位に立った。だが、不安を覚えた。余裕からか、どこか浮ついていた。悪い予感は的中した。2戦目で中韓に連敗し切符を逃した。続くシドニー、アテネ大会も出場できず、男子日本は暗黒期を過ごす。

全日本には「お前が必要だ」

 「もって3年。短くて1年ですね」。アトランタ予選の2年後、両膝の軟骨に穴が見つかり、主治医に“余命”を告げられた。リハビリに耐え30歳でVリーグ復帰。予想を覆す回復力でサントリーを5連覇に導く。

 しかし、代表に呼ばれなかった。戦友は一人、また一人と引退していく。自身も35歳。「さすがに諦めていた」ところ、自宅に電話が入った。「お前が必要だ」。声の主は、バルセロナ大会で主将を務め、日本代表監督になっていた植田だった。

 主将を託され、苦しい特訓が始まった。代表最年少には福井工大福井高校出身の清水邦広がいた。「五輪に出る厳しさを背中で伝えたかった」と、若手と同じメニューを志願。生まれて初めて練習中に吐いた。

 08年6月。北京五輪の切符を懸けたアルゼンチン戦はフルセットまでもつれた。マッチポイント。ブロックの指先を狙って右手を振り抜き、アウトを取った。サントリー元監督で、バルセロナ大会を指揮した大古誠司にたたき込まれた打ち方だった。「よくやってくれた」。携帯には、引退した元代表から次々にメールが届いた。

 五輪本番は5戦全敗に終わったが、「若い選手をあの舞台に連れていけた。僕にはそれで十分」。40歳で現役を引退した。

バレーボール男子 荻野 正二さん
現役時代をにこやかに振り返る荻野正二=1月22日、大阪府のサントリー箕面トレーニングセンター

努力は返ってくる

 巨人ファンで王貞治が憧れ。上中中学校時代は、どこにでもいる野球少年だった。担任が、192センチの長身を福井工大福井高校バレーボール部監督の堀豊に紹介したことで、「バレーのバの字も知らない」男の物語が始まった。バスケットリングに毎日100回ジャンプして帰る、との言い付けを3年間守った。

 サントリーでは同期3人で唯一Bチームにも入れず「また球拾いから」。19歳で入った全日本もモップがけや洗濯など雑用からのスタートだった。

 「努力したことは自分に返ってくる。それだけは胸を張って言える」。2度の五輪出場を果たし、言葉に実感がこもる。北京以来の五輪に臨む代表に「バレー男子の熱い魂を次世代へつないでほしい」とエールを送る。

■荻野 正二 おぎの・まさじ 上中中-福井工大福井高。日本リーグ(現Vリーグ)サントリーで40歳まで現役を続け、現在は監督。1992年バルセロナ五輪出場。2008年北京五輪で主将を務めた。ポジションはウイングスパイカー。197センチ、50歳。大阪府在住。

⇒ 荻野 正二アナザーストーリー

北京五輪(2008年)

 アジアでの夏季五輪はソウル大会以来20年ぶり。競泳の北島康介が平泳ぎ100メートルで連覇し「何も言えねえ」の名言を残した。ソフトボールで坂井寛子(福井市出身)らの日本が悲願の金メダルを獲得。大エース上野由岐子は準決勝から2日間で3連投。「上野の413球」として伝説になった。陸上400メートルリレーで朝原宣治らの日本がトラック種目男子初の銅メダル(2018年、銀に繰り上げ)。フェンシング男子フルーレで太田雄貴が銀メダルを獲得した。この年、福井市名誉市民の故南部陽一郎さんがノーベル物理学賞を受賞した。

2012 ロンドン (英国)

2016 リオデジャネイロ (ブラジル)

2020 東京 (日本)