福井新聞は1948年7月1日の1面で、「見よ この福井市の惨」の見出しに、多くの建物が倒壊した福井市中心市街地の写真が掲載した。崩れ落ちた九頭竜川の鉄橋の写真もあり、震災の悲惨さを物語っている。また、坂井市丸岡町の被害についても触れ、「全町倒壊後火災発生し類焼をまぬがれたものはかぞえるほどで丸岡城は原形なし」(原文まま)などと報じた。
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少年を抱いたおじいさんは立ち上がれない。腰を抜かしたのか膝立ち状態で砂利道をずり歩き、「フミコさんー、フミコさんー」と少年の母の名を叫んでいた。少年の右足は太ももから下が切断されていた。左足もほぼ同じ位置で切れ、皮一枚でかろうじてつながっていた。永平寺町松岡吉野の自宅近くの神社前だった。布目鈴子さん(85)=同町松岡吉野堺=が目の当たりにしたのは「まさに地獄絵図」。思い出すと今も涙がこぼれる。
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福井地震から3日後、布目輝雄さん(86)=福井県永平寺町=は当時5歳の妹、トシ子さんの亡きがらを背負い、父とともに自宅から火葬場に向かった。玄関前で立ち尽くした家族は、妹の姿が見えなくなるまで見送った。4人きょうだいで唯一の女の子だった。長男の輝雄さんにとって、10歳以上離れた妹はかわいくて仕方なかったから、「どうでも自分がおぶっていってやりたかった」。
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福井県福井市木田町に住んでいた当時福井第一高(現藤島高)3年の三崎四郎さん(88)=同市=はその時、斜め向かいの家の玄関にいた。ごう音とともに激しい揺れに襲われ、自宅を含め周りの家がばたばたと倒れた。土ぼこりが舞う中、下敷きにならないよう道の真ん中をはうように逃れた。「世の終わりが来た」と思った。5人家族のうち母だけ姿がなかった。台所にいたはずと、落ちた屋根の板をはがすうち「かすかな声が聞こえてきた。大きな梁(はり)に挟まれて動けずにいた。
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西藤島中(現灯明寺中)1年で13歳だった細川嘉徳さん(83)=福井県福井市=は、日野川河川敷で家の畑仕事を手伝っていて、強烈な揺れに襲われた。地面に倒されながら「何が起きたのか全く分からなかった」。最初の揺れが収まると、急いで堤防に駆け上がった。約500メートル先にある現安竹町の自宅を確かめるためだ。集落を覆う土煙が晴れるのを1分ほど待った。目に飛び込んできたのは、一面がれきの「別世界」だった。
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爆風で玄関の戸ごと外に吹き飛ばされ、福井城址のお堀の水をかぶって熱と煙に耐えた1945年の福井空襲。父が宮司を務める佐佳枝廼社(福井県福井市大手3丁目)近くで、命からがら一夜を過ごした福山テル子さん(85)=現名誉宮司=は、焦土と化した市街地を目の当たりにした。それから3年。本殿が全焼した境内では再建作業がまだ続いていた。地響きを感じたのは、福井第一高(現藤島高)から下校し、仮設の社務所で休んでいたときだった。「アメリカさん(進駐軍)の戦車がまた来たんかな」。一瞬そう思ったが、すぐに激しい縦揺れに襲われた。
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兵庫村(現福井県坂井市)兵庫中の校庭。バレーボールの試合を3日後に控え、三井延子さん(83)=福井県鯖江市=ら同校2年の女子生徒たちは、円になって元気よくパスを回していた。そこに突然の揺れ。ゴオーッという地鳴りのような音も聞こえた。「みんなパニック。夢中で走リ出した」。一目散に校門を目指した。
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4歳の弟は、太い梁(はり)が直撃し動かなくなった父に「お父ちゃん、お父ちゃん」と声を掛け続けた。 当時中学2年の姉は父の使いに出ていて無事だった。自宅にいた母は2歳の弟をかばうように亡くなり、助け出された弟も、その日の晩に息を引き取った。母のおなかには赤ちゃんがいた。家族のうち生き残った大人は75歳の祖母だけ。しかし腕をけがしていた祖母は寝込むようになり、8月13日、ほしがっていたスイカをきれいに食べた後に眠るように亡くなった。13歳と4歳のきょうだいが残された。
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福井地震で左腕を失いながらも生き延び、半世紀以上にわたり創作に励んだ福井市の彫刻家加藤恒勝さん(享年84)の被災体験を描いた紙芝居が同地震から70年に合わせ制作された。小中学校や公民館に貸し出す計画で、発起人の男性は「生き抜く力や自助共助の大切さを子どもたちに伝えたい」と話す。
このほど、順化お堀の灯り実行委員会が、福井市明道中放送部にナレーションを依頼し、動画化した。
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福井地震の発生から70年の節目を迎えた28日、福井市や永平寺町で追悼式が営まれた。遺族や震災を経験した高齢者らが参列。犠牲となったかけがえのない家族らに思いを寄せ、今もあせぬ被災の記憶が教訓として受け継がれるよう願った。
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廃墟(はいきょ)と化した街、あちこちに転がる遺体。1948年の福井地震発生直後、15歳で目にした福井市街地の見るに堪えない惨状が、ずっと脳裏から離れなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の救援活動に同行した米ワシントン在住のジャン・エバンスさん(85)。70年越しの念願がかなって福井市を訪れ、28日の追悼式に参列して犠牲者の冥福を祈った。「きょうはとても特別な日。困難に負けずによみがえった街に祝意を表したい」と目を潤ませた。
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福井市出身の地震学者、大森房吉(1868~1923年)は、現在も使われる震源地を測定する公式の発見や、地震帯を見いだし地震予知に一歩を踏み出すなど、地震学の世界的権威とまで称された。その大森の名を、最初に知らしめたのが1898年の「大森式地震計」の発明とされる。ぜんまい仕掛けなどで動くドラムに煤(すす)のついた紙を巻いて記録する画期的な方法により、従来の地震計の欠点を解消。地震発生から終息まで連続記録できるようになった。
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福井県の地域防災計画は最大震度7となるケースを想定しており、福井地震と同様の地震が発生した場合、最大で3万人近くの死傷者を見込んでいる。県内各市町は同計画の想定や独自調査を基に、最も被害が大きくなるケースの震度分布図を公開している。県は「発生時の危険性を知り、防災意識を高めることは、いつ発生するか分からない地震に対して重要」と訴えている。