【論説】「戦後政治の総決算」を掲げて、安倍、佐藤、吉田、小泉各内閣に次ぐ戦後5位の長期政権を担った中曽根康弘元首相が死去した。

 業績として真っ先に挙がるのが国鉄(現JR各社)、日本電信電話公社(現NTT各社)、日本専売公社(現日本たばこ産業=JT)の民営化だろう。「ブレーン政治」と批判も浴びたものの、民間有識者を集めた諮問機関を数多く立ち上げ、政策の方向性を定めていく手法は民営化などの推進力となったといえる。首相官邸主導の政治の先駆けと位置づけられる。

 外交でも、当時のレーガン米大統領との間で「ロン・ヤス関係」という蜜月を築いて日米同盟をより強固にするなど大きな業績を残した。1983年には日本の首相として戦後初めて韓国を訪問。米国よりも先に訪れたことで「親韓派」として韓国保守派の間では語り継がれているという。80年代には中国の胡耀邦元総書記との蜜月関係を築いたことでも知られる。

 ただ、85年8月15日に靖国神社を公式参拝したことで、中国と韓国の猛反発を招く結果となった。諮問機関で「宗教色を薄めれば合憲」とのお墨付きを得ていたが、予想外の反応だったようだ。翌年から自粛することで沈静化を図ったが、この参拝を機に現在に至るまで靖国問題を引きずることになる。

 首相就任までは自民党内の少数派閥ゆえに「三角大福中」(三木、田中、大平、福田、中曽根各派)と称された、し烈な権力闘争の中を巧みに生き抜き、トップに上り詰めた。そうした「政界遊泳術」は「風見鶏」と揶揄(やゆ)された。「不沈空母」発言などタカ派体質でもあったが、自身の主張や立場を封印したり、変えたりすることにも躊躇(ちゅうちょ)しなかった。現実路線の選択という柔軟性も併せ持っていたといえるだろう。

 ロッキードやリクルート事件では疑惑を追及されたが、国会の証人喚問に応じるなどして切り抜けた。イラン・イラク戦争では自衛隊の掃海艇派遣を目指したものの、後藤田正晴官房長官の反対で断念。間接税(売上税)の導入にも意欲的だったが、野党の抵抗に遭い廃案を受け入れた経緯がある。政界引退後も晩年までライフワークである憲法改正に執念を燃やし続けていたことでも知られる。

 「政治家は常に歴史法廷に立つ被告人」は常々口にしていた言葉だという。信念に従い政策を推進するために世論を喚起する一方で、世論に向き合い、時には軌道修正を図る、剛と柔を織りなす姿勢は今の政治家にこそ求められているのではないか。政界のみならず各界から「巨星落つ」との受け止めが広がるのももっともだ。

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