【越山若水】原稿の締め切りが迫るにつれて「耳から血が流れるような焦燥と苦悶(くもん)に駆られ、机の前に髪毛をむしっていても、自分が本もののノイローゼになるような気がして怕(こわ)くなり、一切を放棄して外にとび出した」。流行作家だった松本清張が体験を記している▼とはいえそこは清張、電車に乗ったり歩いたりしているとき、ふいと着想が浮かび窮地を脱したという。こうした、作家の締め切りをめぐる悪戦苦闘などをつづったアンソロジー「〆切本1・2」(左右社)に、締め切り日前に必ず書き上げ編集者に渡すのを常としていた珍しい作家が紹介されている▼「戦艦武蔵」などで知られる故吉村昭さんだ。少年時代から身についた性分で、夏休みの宿題は始まった日から5日ほどで仕上げていたという。実は「小心者」。締め切りの10日ほど前に自分なりの締め切り日を定め、ゆったりとした気分で筆を進めたとも。エッセーのタイトルは「早くてすみませんが…」▼県ふるさと文学館で開かれている「吉村昭展」に、自宅にあった金庫が展示されている。火事でも焼けないようコップ1杯分の水を入れ、早めに書き上げた原稿を締め切りまで入れていた▼吉村さんの歴史小説はどれも徹底した取材から史実を掘り起こし登場人物がすっくと立ち上がる。あせらず毎日コツコツと執筆。珠玉の名作を生んだ仕事の流儀が垣間見える。

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