死と関わる花は不吉のように思われますが、水仙伝説と重ね合わせて考えたとき、一度死して水仙の花として再生した存在として読み取れるのではないかと思います。  

 白山信仰の根幹には死と再生が据えられていて、明治の廃仏毀釈以前には、石徹白などの白山信仰の主たる地には花祭りと称される神道系の行事が実際に行われていたという記録があるのです。仏教系の花祭りが四月か五月に行われるのと異なって、神道系の花祭りは必ず冬になる少し前、十一月頃に行われるということを民俗学を研究しておられる金田久璋さんから教えていただきました。水仙伝説はまさに死と再生の伝説にほかならないのです。こうした道筋をたどっていきますと、泰澄大師伝説の白山信仰→十一面観音信仰(頭上中心に阿弥陀仏を掲げている)→阿弥陀信仰(浄土信仰)とこの地に深く浸透してきた信仰心にまでつながります。

 これまでの福井の地に住む人々の心深くに浸透している信仰心に根づいた精神の在りようは、こうした風土の中で育まれ、人々の生活の中に深く根づいてきていたのでした。

 一度死を潜って再生した命は、生きとし生きるものを生かそうとする温かく優しい思いや行動となって現われてくるように思われます。それは、どんなところにも姿、形を変えて人々を救済しないではおれない観音力の働きの顕れであり、その観音様が頭上高く頂いておられる、阿弥陀仏の働きである慈悲の思いにも通ずるように思われます。そうした精神が根底に流れている福井の地を、今、改めて福井に住む一人ひとりが正しく認識しなおすときではないかと思われるのです。

 福井という地域にも、かつては生きとし生きるものを生かす思いがその底に流れていて、互いを思いやる気持ちが人々の生活に深く根付いていたのです。ところが現在では、その意識が時代とともに変化したためでしょうか、封建制や、消極性という県民意識に代わってきました。そして、そうした意識は、だんだん若い人からは敬遠されるようになり、県外の人からは、マイナスイメージとして見られがちになりました。生かし合い、協力し合う中で必然的に生じてきた仲間意識も、同じ思いや行動をとらない人に対しては鋭い批判の刃を差し向けたり、人を支配したりする力に代わってきました。それがさらに自分の権利を振りかざすエゴイズムに転じてきているように思われるのです。こうした現在の福井の意識を冷静に捉え、かつて福井に満ち満ちていたであろう人を生かし、思いやる精神(水神様=女性原理=ソフィア=浄土思想)を基底とする人々の意識を、現在に再び蘇らせるまでに県民意識を高めることに目が向けられるようになれば、本当の意味で福井を生かすことになるのではないかと思います。そのことは、目に見えてすぐに効果が出てくるものではないかもしれませんし、時間もかかることでしょう。ですから多くの人の賛同を得るのは難しいかもしれません。しかし、そうした取り組みの中にこそ、本当に福井を生かす方向性が開かれてくるように思われるのです。

 福井や水仙の里を訪れる人が、暖流と寒流の中で咲く水仙と、媚びないけれども自分の地域を熟知していて、そこから醸し出されてくる福井の人たちとの触れ合いの中で、明日に生きる力を体得して帰ることができるようなそんな住民ぐるみの、古くて新しい観光地化が目指されるようになればと思われるのです。

 ただ、私は、偶然なのか、不思議な出会いなのかわかりませんが、その導きにより、私の分を超えた世界にさ迷い、その体験の中での思いを拙い体験記としてここに記させていただきました。浅学な私には、これまで述べてきた内容に対して、きちんと世の中の人に納得してもらえるような学問的な裏付けはとてもできません。もしこうしたことに関心を持ってくださる方がおられて、そうした人によって裏づけができるようでしたら、こんなに嬉しいことはありません。(平成3年4月 起稿)

 拙著『ふるさとへの思いからー越前水仙に導かれてー』より

 ※これを書かせていただいた約30年前の私の周りの人々の意識の在りようと、今日の人々の意識とではかなり違ってきているように思われます。今日の人々の意識は、権威をかざしたり、権力的な力をふるう人は少なくなり、そうした力はずいぶん弱められてきているように思われます。

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