田治正浩さんが出場し、日本代表が14―9で豪州学生選抜を破った1934年2月18日のテストマッチ(日本ラグビーフットボール協会所蔵)

 ラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会で、9月20日に開幕戦を迎える日本代表。その黎明(れいめい)期の1934年(昭和9年)に行われた豪州学生選抜とのテストマッチに、福井ゆかりの選手が出場し、“伝説的チーム”の一員として歴史に名を刻んだ。選手は日本ラグビーのルーツ校である慶応大で中心選手として活躍したが、太平洋戦争で亡くなった。いとこに当たる福井市の男性は「親族にとって大きな誇り」と話している。

 選手は、父が福井市出身の田治正浩さん。本人は東京育ちで、慶応大ラグビー部で活躍し、同大の全国制覇にも貢献した。

 13歳下のいとこの田治秀介さん(93)=福井市=によると、正浩さんは当時秀介さんも暮らしていた家をよく訪れていた。本籍は福井市だったらしく、正浩さんが一度入営した際は町内の神社で武運を祈り、家に「祝入営」と書いたのぼりを飾った記憶があるという。正浩さんの弟は福井市内の学校に通っていた。

 約2年前、田治家の家系図をつくるため、秀介さんの長男が慶応大ラグビー部に関するサイトなどを調べたところ、日本代表に選出されていたことが分かった。

 豪州学生選抜とのテストマッチは1934年2月11日に神宮競技場、同18日に花園ラグビー場で行われ、正浩さんはフォワードの一員として2試合とも出場した。11日は8―18で敗れたが、18日は14―9で強豪相手に見事勝利を収めた。

 日本ラグビーフットボール協会が今回のW杯前に開設したサイト「デジタルミュージアム」に当時の記事が掲載され、伝統の“桜のジャージー”で奮戦する選手たちの写真もある。2戦目の記事には、日本が正浩さんらの速い出足で相手の連携を絶つ策をとったことや、スクラムの強さが書かれており、勝利に貢献したプレーぶりがうかがえる。

 別の親族によると、正浩さんは太平洋戦争が始まると早々に召集され、転戦の後に戦死したという。福井市六条小そばにある戦没者の石碑にもその名が刻まれている。

 一時期、東京でも正浩さんと親交があった秀介さんは「豪快な性格で、福井に来たら知らない人にまで福井弁で話しかけるような社交的な人だった」と振り返る。「田治」は全国的にも珍しい名字だとし「日本代表の一員に、田治の名が記されていることは誇らしい。W杯で日本代表をしっかり応援したい」と目を細める。

 同協会企画部のアーカイブ担当で元早稲田大ラグビー部の富岡英輔さん(63)は「(日本代表監督も務めた元同大監督の)大西鐵之祐さん(故人)は1934、35年ごろの日本代表が史上最強だと話しており、伝説的な選手もいる。その一員だった田治正浩さんは、間違いなくすごい選手だっただろう。戦争がなければ、さらにラグビー界に貢献していただけたと思う」と話している。

 【テストマッチ】ラグビー日本代表初のテストマッチ(海外の代表チームなどとの試合)は1930年のカナダ遠征の試合で、田治正浩さんが出場した34年の豪州学生選抜戦は通算4、5試合目。20日行われるW杯開幕カードのロシア戦は同353試合目となる。日本ラグビーフットボール協会はテストマッチに出場した代表選手の名誉をたたえるためキャップ制度を設けており、田治さんはキャップ「2」となる。ともに福井県出身で広くその名が知られる山口良治さんは「13」、朽木英次さんは「30」を誇る。

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