「ニーナ」を歌う矢野絢子さんと、足田メロウさんのライブペインティング

 その「物語」のような歌を初めて聞いたのは、今から15年前のことだ。

 場所は札幌市の時計台。言わずと知れた札幌のシンボルだが、実は建物の2階はホールになっていて、コンサートやイベントの会場としても市民らに親しまれている。当時は月に1度、地元FM局が主催するアコースティックライブが開かれ、人気を博していた。観光客が立ち去った夜、時計台の鐘の音とともに始まる音楽会―。札幌支社の記者だった私は、そんな「街ネタ」の記事を書いたのをきっかけに、何度か時計台のライブに通うようになった。

 時計台のライブに出演したミュージシャンの中に、同年メジャーデビューしたばかりの24歳の女性がいた。高知出身のシンガーソングライター、矢野絢子さん。小柄な彼女がピアノの前にちょこんと座り、歌い始めると、時計台の温かみのある木の空間に、どこかピンと張り詰めた空気が漂った。そして、何曲目かに演奏したその歌に、一気に引き込まれた。

 「その椅子は 木でできた 丈夫な椅子…」

 チャーミングなピアノのイントロとともに始まる「ニーナ」は、ある椅子の一生を描いた12分に及ぶ大曲。デビューアルバム「ナイルの一滴」に収録された矢野さんの代表曲の一つだ。

 職人のじいさんが作った美しい木彫りの椅子は、さまざまな人の手に渡り、皆に愛されながら、海を越え、時を超え、それぞれの暮らしの中を旅する。職人の店から、豪奢な屋敷の大広間へ、一人暮らしの老婦人の元へ。そして、いくつもの時代を過ぎ、古びていった椅子にも、やがて旅を終える時がきて…。

 矢野さんの伸びやかな歌声で、1枚1枚ページをめくるように、物語は進む。そして曲の終盤、この長大な物語の“サビ”とも言えるワンフレーズが、不意に、高らかに、響き渡った。ネタバレになるので詳しくは書かないが、時計台の三角屋根の下で、「その瞬間」の鮮やかさに、鳥肌が立ったのを今も鮮明に覚えている。

 後日インタビューした彼女に、「ニーナ」を創作した経緯を聞いた。作詞作曲したのはデビュー前年の2003年。地元・高知のミュージシャン仲間で、矢野さんの師匠とも言える池マサトさんから「曲の長さを気にせず、一つの物語のように書いてみたら」とアドバイスを受けたのがきっかけだという。

 「自分は何を書こうかと考えて、思い浮かんだのが、人と密接に関わり、大事に愛されてきたモノのお話。それも、人の一生よりもずっと長く続く物語でした。それで主人公を椅子にしたんです。それぞれの時代と登場人物を書き出して図にし、構成を考えながら歌詞にしていきました」(矢野さん)

 そうやって生まれた「ニーナ」。不思議なのは、物語の結末を知った後にCDで繰り返し聴いても、「その瞬間」の鮮やかさがずっと色あせないことだ。時々、無性に「その瞬間」を味わいたくて、この12分の歌を通して聴きたくなる。そんな風に長く付き合ってきた「ニーナ」は、いつの間にか私にとっても特別な1曲になった。そして、聴くたびに思った。この歌の特別な手触りは何かに似ている…と。

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 その「何か」の答えが、15年の時がたったある日、手元に届くのだから面白い。

 今年の初夏、「ニーナ」は絵本になった。SNS上で情報に触れた時、思わず「それだ!」と叫んでしまった。時の流れにもまれながら、人々の暮らしとともにあり続けた椅子の物語と「その瞬間」のカタルシスは、子どもらが何度も繰り返し読む良質な絵本の世界に通じる。

 絵本の刊行に合わせ、10数年ぶりにインタビューした矢野さんは、「たぶん『ニーナ』は、生まれた時から絵本になりたかったんじゃないかな。やっとなれて、ほっとしてると思う」と笑った。実際「絵本にしたらどうか」という関係者やファンの要望は幾度となくあったという。問題は、その歌詞の世界を、誰が、どう絵にするかだった。

 矢野さん自身もデビュー以来、生まれ育った高知を拠点に、全国各地のライブハウスなどを訪れては歌う営みを続けてきた。その旅の途中で出会ったのが、画家の足田メロウさんだ。ミュージシャンのライブと同時進行で、歌の世界を水彩画にしていく「ライブペインティング」を手掛ける。その画風と鮮やかな色彩に惚れ込んだ矢野さんは、「この人だ!」と、「ニーナ」の絵本化を持ちかけた。

 足田さんは約1年を掛け、歌詞の場面を18枚の絵にした。「何度も曲を聴きながら、歌詞だけでなく、ピアノの音色、メロディー、絢子さんの感情の動きに思いを巡らせ、自分の解釈も入れながら描きました」と振り返る。見開きのページの右側に歌詞、左側に絵を並べ、完成した絵本。「ニーナ」を16年間、大切に歌い続けてきた矢野さんは言う。「メロウさんの筆によって、『ニーナ』がまた新たに動き出した。絵の力ってすごい」

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 今年6月、絵本「ニーナ」の出版記念ライブが東京・目黒のライブハウスであった。矢野のピアノの弾き語りに合わせ、足田がライブペインティングをする。矢野さんのデビュー曲で特に人気が高い「てろてろ」、夜中に一人でバスを待つ老婆を歌った「85歳の女の子」、郷愁に胸が締め付けられる「汽笛は泣いて」、そして「ニーナ」…。セットリストには、約400曲あるという矢野のオリジナル曲の中でも、特に物語性や叙情性の高い曲が並んだ。その一つ一つに触発され、描かれる足田さんの水彩画が、矢野さんの歌と伴走するようにモニターに映し出される。

 初めて「ニーナ」を聴いた時に31歳だった私も、今では40代半ばのいいおじさんになった。しかし、時計台の空気を振るわせた「その瞬間」の鮮烈な響きは、東京のライブハウスでも相変わらず、色あせないまま、私の胸に届いた。

 アンコールで矢野さんは、会場を埋めたファンに向かって、呼び掛けた。

 「歌と絵が幸福な出会いをしたら、人の胸を打つものになる。一生忘れられないぐらい」

 そんな「幸福な出会い」に立ち会えたことを幸せに思った。(多比良孝司・共同通信文化部記者)

※絵本「ニーナ」は、同曲と「てろてろ」を新たに録音した特典CD付きで3千円(税込み)。矢野さんのオフィシャルサイト(http://yanojunko.net/)やライブ会場で購入できる。

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