我が家では、ジャガイモをレンジでチンしてマヨネーズや塩を振って食べる料理(?)を「ニーチェの馬」と呼んでいる。言うまでもなく、父娘が茹でたジャガイモだけの食事を繰り返す日々を淡々と描きながら日本でもヒットしたタル・ベーラの映画のタイトルにちなむ。本作は、その『ニーチェの馬』を最後に56歳で映画監督からの引退を表明したハンガリーの鬼才が、1994年に発表した伝説的な出世作。今回が日本初公開となる。

 なぜ“伝説的”か? 上映時間が7時間18分に及ぶこと。にもかかわらず、全編でわずか150カットほどしかなく、タル・ベーラ作品を特徴づけるモノクロ長回しの映像スタイルが世界に初披露された…から。舞台は、社会主義時代末期の農村。死んだはずの男が戻ってきたことで村に起こる不穏な出来事が、タンゴのステップ(6歩前に、6歩後へ)に呼応した12章構成で語られる。

 とはいえ、本作の魅力はもちろん映像の強度。冒頭の牛の名演技に始まり、奇跡のようなカットが随所に散りばめられている。陽が昇り、陽が沈む。その光の推移や昼夜の空気の微妙な変化までもフィルムに刻み付ける技量と胆力がスゴイ。ソ連のタルコフスキーを思わせる妥協のないアプローチは、資本主義圏の映画では難しいだろう。

 ただし、タルコフスキーと決定的に違うのは、物語に漂うサスペンスの気配。そこに最も寄与しているのが、静かに降り続ける雨だ。しかもこの雨が、長尺にも屈しない揺るぎない世界観を支えているのである。それにしても、登場人物の誰一人傘を差さないのはどうして? 当時のハンガリーには傘がなかったに違いない。★★★★★(外山真也)

監督・脚本:タル・ベーラ

原作・脚本:クラスナホルカイ・ラースロー

9月13日(金)から全国順次公開

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