決勝で履正社に敗れ、優勝を逃した星稜ナイン。中央は林和成監督に握手でねぎらわれる奥川恭伸=8月22日、甲子園

 1995年の第77回大会で帝京(東東京)に敗れて以来の決勝も、王座には届かなかった。星稜(石川)は剛腕投手の奥川恭伸を擁し、北陸勢として初の夏の甲子園大会制覇に挑んだが、厚い壁にはね返された。

 星稜は甲子園で悲劇がつきまとってきた。高校野球ファンの語り草になっているのが、79年の第61回大会の箕島(和歌山)との死闘だ。1―1で入った延長戦。星稜は十二回、十六回と2度勝ち越しながら、いずれも奇跡的な本塁打で追い付かれた。十六回は2死からファウルフライを追いかけた一塁手が、捕球直前に転倒。“打ち直し”で同点弾を浴びた。十八回に3―4でサヨナラ負けを喫した。後に「史上最高」と称せられる試合だ。

 92年の第74回大会では、球場が異様な雰囲気に包まれた。大会ナンバーワンの強打者で、その後巨人や米大リーグ、ヤンキースで活躍した松井秀喜が全5打席で敬遠され、明徳義塾(高知)に、2―3で惜敗。観客席からはメガホンがグラウンドに投げつけられ、明徳義塾には容赦のない怒声や罵声が浴びせられた。

 この敬遠作戦に対して当時の牧野直隆日本高野連会長が「無走者の時には、正面から勝負してほしかった」と言及。社会問題にまで発展したのはまだ記憶に新しい。

 95年の第77回大会で星稜を退けた帝京は、準決勝で敦賀気比(福井)を破っており、北陸勢の悲願を阻んだ。

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