前回は予報の話でしたが、今回は通信についてです。

 気象測器で観測した気象データは気候の長期変動を解析する貴重な資料ですが、観測データを集約して天気図を作るのは天気予報の基礎であります。初めて天気図が作られたのは1820年(文政3年、江戸中期)、ドイツの物理学者ブランデス(Heinrich Wilhelm Brandes)はパラチナ気象学会(※)が集めた資料により、1783年(37年前)の資料で1年間の天気図を描き、これにより嵐の気圧配置が明らかになりました。
※パラチナ気象学会  1780年、ババリア選定候カール・テオトルがマンハイム(独)に創立した。

 天気予報のための実用化は、観測所と電信の整備された19世紀後半、フランスからはじまりました。日本では東京で内務省地理局気象台により1883年(明治16年)2月から天気図の発行が始まりました。当時は印刷された天気図を郵便や宅配で関係機関へ届けていました。予報や警報は、東京から地方へ電報で送られておりました。受け取った測候所では係員が所長に提出して指示を仰ぎ関係機関へ伝達します。


 このシステムが大きな不幸を生んだ実例があります。1921(大正10年)9月25日、四国遥か南海上に台風があり北東に進むと思われていましたが、中央気象台の午後の予報作業によって進路を北北東に向きを変え本州を目指していることが分かり、急遽全国の測候所へ電報が送られこれに基づき暴風警報を出していました。しかし、富山県伏木測候所では、所長が退庁後で当直者が所長に連絡することを怠り、警報は出しませんでした。台風は26日朝には敦賀付近を通過して能登半島の北へ進み、伏木は26.8m/sの暴風雨になり、富山湾に出漁していた漁船や停泊していた船は南の暴風により沈没船1250隻、死者400名で甚大な被害をだしました。

 当時は県営測候所で県議会から測候所の失態を責められ、所長は事後処理の後11月26日、事故の2カ月後に入水自殺し魚津の浜で死体となって発見されました。

 話を元に戻します。天気図の基になる観測データは電報局から東京気象台へ送られ明治16年の天気図には北は札幌から南は鹿児島まで全国で22箇所、北陸では金沢が記入されており、データは風向風速・気温・気圧で、等圧線は760mm(水銀柱)と765mmの2本が記入されています。

 福井県では1921年(大正10年)、官庁用無線電信施設が設置されて気象無線通報を受信開始しました。観測データは電報局経由で東京へおくられていました。1946年(昭和21年)気象専用線が整備されてモールス信号により名古屋気象台を経由して中央気象台へ送られました。

 1960年には気象無線模写放送(FAX)の受信を開始し、1966年(昭和41年)には従来のモールス信号での交信に変わり、テレタイプ通信となりました。1982(昭和57年)無線FAX受信に変わり有線高速度FAXが導入されました。

 ここまでは気象の本、先輩の話と小生の記憶に基づくものです。最新の気象台はお盆明けに取材して報告したいと思います。

 県内7月の気象は平年に比べて、降水量は全県で少なく、平均気温はほぼ並み、日照時間は少なくなりました。8月に入り14日までの福井市の降水量は5.5mmです。

 気象庁が7月末発表した北陸地方の3カ月予報は、気温は平年並みか高め、降水量は平年並みか多めと予想しています。

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