正直言うと飽和状態となって久しいお笑い芸人の中で、ワン、オブ、ゼム感は否めなかったわけで。だって顔こそ知ってるものの、どんな芸風かとか知らないし。知ってるのは見るからにチャラそうな相方から、そこはかとなく匂ってくるコバンザメ臭のみ。そんなお笑いコンビ・カラテカの、よりによって「じゃないほう」に、今、華麗なる手のひら返しをお見舞い中。つまり夢中なのである。ゲンキン?調子がいい?うん、しってる!

 矢部太郎の新刊は、大反響を呼んだ『大家さんと僕』の続編であり完結編となるコミックエッセーだ。矢部が新宿のはずれで借りた部屋、そこで出会った大家さんは、上品で時代錯誤、ちょっと変わり者でチャーミング。本シリーズは、そんな「大家さんと僕」が、ひとつ屋根の下で暮らす日々を描いている。

 第22回手塚治虫文化賞短編賞受賞、シリーズ累計発行部数100万部突破、日本中が涙した感動の物語……。世間は本書を、そんな華々しい言葉で形容する。でも、違う。そうじゃなくて、ええと、そうじゃない。

 前作は、大家さんとの出会いから始まって、お茶にご飯、お裾分けに草むしり、そんな蜜月を重ねて、二人の関係は豊かな、友人とも恋人とも、ましてや大家さんと住人とも違う、何とも形容しがたいものとなっていった。しかし本書はすこし、趣きがちがう。それは、斜陽の気配っていうのだろうか、永遠に続くわけではないという静かな翳りの予感が、少しずつ物語に広がってゆく。

 言葉にすると湿っぽくなりそうなストーリーだが、それもまた違う。愛すべき登場人物たちが、時に軽やかに、時に笑い飛ばして、時になーんも考えず、時に真剣に、時に泣き笑いの表情を浮かべながら、温かくてかわいい、クスッと笑える物語に仕上げてくれているのだ。

 お酒の席で「ババアの遺産を狙え」と言い続けてきた口の悪い先輩芸人。自称ギャル男の生き残り、「これからブクロでナンパっす」が口癖(?)、そのくせ草むしりが丁寧で、大家さんが絶大な信頼を寄せる後輩芸人の「のちゃーん」(なんだその名前)。レストランで食材のアレルギーを訊かれ「ピーマン」と答える大家さんの友達のえみちゃん(それ多分好き嫌い)。そして新宿伊勢丹の地理完璧で、電話での遠隔操作もお手のもの、新宿中村屋で散々カレーの話をした後で、まさかの焼きそばを注文する、大家さん。何を話していても気付いたら戦争の話に繋げていて、「もう…矢部さんは戦争にとられたくない」と小さく呟く、大家さん。

 そして、大家さんが日に日に下降線を辿っていくように見える、その現実を受け止めきれない「僕」。時間を見つけてお見舞いに行っても、大家さんを気遣っているように見せかけて、逃げるように帰ろうとする「僕」……。元気な大家さんの、楽しい日々だけ描いていたいと思っていた彼は、しかしある日を境に最後の日まで描くことを決める。「枯れた花は咲かない。でもそこから学べること、美しさはたくさん…ある」、口を開けば金の話しかしなかった先輩の言葉を、何度も読み返して、大団円へとページをめくった。

 みんな優しくて、なんだかおとぎ話みたいだった前作。その魅力はそのままに、移りゆく現実を受け止め、描こうとする覚悟が感じられた本作。その筆致は、人生のある特別な季節を、慈しんでいるようだ。「大丈夫。矢部さんはこの作品を描き切ったのだもの」そんな大家さんの声が聞こえてくる気がした。そう、この本を開くたびに、二人のランデブーは続く。

(新潮社 1100円+税)=アリー・マントワネット

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