秦秀雄氏

 魯山人が自らの料理を振る舞う理想の食空間として東京と大阪に築いた会員制料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」。100人余りの職員を束ねる右腕の支配人に抜てきされたのが、福井県の三国町(現坂井市)出身で骨董の目利きとして名をはせた文人秦秀雄(1898~1980年)だった。審美眼と文才で多くの文化人から一目置かれ、井伏鱒二の小説「珍品堂主人」(59年)のモデルにもなった秦は、疎開先を探していた旧知の詩人三好達治を郷里三国へ手引きするなど、福井の文学界にとっても大きな役割を果たした。

 「人がいいと言ったからこれはいい物だ、と見方を毒されないことです。自分の目で素直に見てゆくと、ほこりをかぶった物の中に佳品があるのを見つけることができます」(「工芸青花」7号より)。既成の価値観にとらわれない秦の「眼」は、民芸運動を進めた柳宗悦や美術評論家の青山二郎、文芸評論家の小林秀雄ら「伝説の目利き」たちから信頼された。

 秦は浄土真宗の古刹に生まれ、中学までを三国で過ごした。東洋大卒業後に骨董の魅力に取りつかれ、中学の国語教諭の傍ら陶誌「茶わん」の編さんに従事した。

 自著「追想の魯山人」(五月書房)によると、魯山人との出会いは32歳だった30年。初対面で話が弾み、その日のうちに星岡茶寮へ招待された秦は、1年後に請われて職員となり、やがて支配人に引き立てられた。

 独断専行の魯山人が、15歳年下の秦の進言には耳を傾けた。自ら発刊した会報誌「星岡」の編集長を任せ、教員時代の3倍の高給を自ら手渡すなど厚い信頼を寄せた。

 ■詩人は炭がない

 しかし36年、魯山人が星岡茶寮の会計係をクビにしたことを発端に、その横暴さや放漫な経済観念に不満を抱いていた従業員たちがストライキを起こす。支配人の秦は「ゆえあって」その中心に立ち、恩義ある魯山人を解雇に追い込んだ。

 騒動の責任を感じ星岡茶寮を去った秦は、目黒で料亭を経営後、43年に伊東温泉へ閑居。疎開先を探していた三好がふらりと訪ねてきたのはそんなころだった。

 秦の自著「忘れがたき日本の味」(文化出版局)によると、伊東で家探しを頼まれた秦は、小田原市(神奈川)の家族と別離し、萩原朔太郎の娘葉子と新生活を始めようとしていた三好に、三国への疎開を勧めた。旧知の富豪が持つ雄島村の別荘を借りる算段を付けた上で「詩人は炭(生活能力)がない」と心配し、有力な援護者まで紹介した。

 すっかり三国を気に入った三好は、44年から5年にわたり滞在。作家の中野重治や俳人の森田愛子、伊藤柏翠らと親しく交流し、弟子の詩人則武三雄(かずお)を呼び寄せるなど、戦後福井の文学界にかけがえのない財産を残した。

 ■己の中に美を持て

 「珍品堂主人」以降広く知られるようになった秦は、料理屋経営の傍ら雑誌「銀花」「小さな蕾」の創刊に立ち会い、骨董にまつわる随筆の書き手として活躍した。

 古美術商の駆け出しだった中島誠之助さんに高値でまがい物をつかませて“修業”させるなど、生き馬の目を抜くシビアさも持ち合わせていた秦。「己の中に美を持て」というメッセージは、袂(たもと)を分かった魯山人の「独歩」にも通じる。真に美を知る者は孤独。その孤高の美学こそが、没後40年近くを経た今も骨董の世界で信奉者を生み出し続けているゆえんなのかもしれない。

  ×  ×  ×

 書、篆刻、絵画など、あらゆる分野で才能を発揮した北大路魯山人。美食を芸術の域に高めるために、自ら作陶した器の魅力に迫る企画展は7月7日まで、福井県の福井市美術館で開かれている。

関連記事