明治20年に内務省から福井県に測候所の設置が指定されましたが、当時は県営のため県議会に2回提案され否決されました。明治28年夏福井県は大雨で大水害や山岳崩壊などで死者・行方不明147人の犠牲者が出て、県議会で測候所の設置予算が承認され、明治30年1月1日に福井市日の出下町に県営測候所として業務を開始しました。

 昭和20年7月19日米国空軍の爆撃で庁舎消失し、仮設建物で業務続行し同年8月11日町屋町に仮事務所開設しました。昭和22年12月福井市豊島中町(旧福井市営野球場南)に庁舎新営して業務開始を続けましたが、昭和23年6月28日福井地震により庁舎全壊し、仮設建物で業務続行しました。翌年3月新庁舎完成しましたが、当時は太平洋戦争後で物資は不足していましたから、使用された建築資材はどこかの不要で解体されたものを再利用したものでした。昭和29年に小生が福井測候所に採用された頃の庁舎です。

 敦賀測候所は福井測候所が業務を開始して10カ月後に福井測候所敦賀派出所として業務を開始しました。平成17年に自動観測システムの整備により無人化されて 特別地域気象観測所へ移行しました。

 昭和31年7月1日に気象業務法が改正されて中央気象台(運輸省の内局)は気象庁(外局)に昇格しました。昭和32年9月1日、福井測候所は福井地方気象台に名称が変更されて現在に至っています。

〇観測編

 昭和29年頃の地上気象観測について、気圧は水銀気圧計で、1643年イタリアのトリチェリーが実験により大気圧と同じ水銀の重さで表した水銀柱の値mmをmb(気圧の単位)に換算していました。連続記録はアネロイド自記気圧計で、皿状の薄い金属板2枚を相対して組み合わせ内部を真空状態にすると、気圧により変形するのを記録します。

 測候所には風向風速を測定する器械を設置するために高さ10mの測風塔があります。また気象観測のために建物の影響を受けない場所に芝生を植えた広場(露場)があり、そこに百葉箱(風通しを良くするために隙間だらけの箱)や雨量計、蒸発計、積雪柱、地中温度計を配置します。

 百葉箱の中には気温を計る棒状水銀温度計で連続記録はバイメタル温度計(金属の温度変化による伸縮を利用)、最高気温は水銀温度計の球部を特別に細工して、気温が下がっても水銀が球部に戻らないようになっており、観測後は温度計を強く振って球部に戻します。最低気温は1794年にD.ラザフォードによって発明されたもので、アルコール温度計のアルコール頭部に細い色付きガラス棒があり、温度が下がると表面張力でガラス棒は移動し、温度が上がっても留まるようになっており、観測後は温度計を傾けて元に戻します。
相対湿度は棒状温度計に湿った布を巻いて蒸発熱で下がった温度と気温により算出し、連続記録は毛髪自記湿度計(湿度により毛髪の伸縮を利用)。

 雨量は直径20cmの円筒形容器に入った水の深さ、実際はmm単位で計るので貯まった水をメスシリンダーに移し替え計り、記録は雨水をタンクに貯めてフロートでの変化を記録する。タンクが一杯になるとサイホンの原理で雨水は排出される。積雪は物差しで計る。

 風力はお椀を四つ取り付けたロビンソン風速計[1846年(幕末の弘化三年)にアイルランドのトマス・ロビンソ氏が考案した]を測風塔に設置し、お椀が一回転するごとに接点が閉じて、電気信号で記録紙に印字する。風向は矢羽根型で矢羽根の向きは電気信号で観測室に伝えるが、記録は矢羽根に直結したシャフトに記録紙を装着する。

 日照時間は青写真(クエン酸鉄アンモンと赤血塩を溶解して記録紙に塗り乾かしたもの)とピンホールカメラの原理を利用して記録させ、日没後に円筒から取り出して水洗し乾燥する。

 新しくなった観測機器は次回以降報告します。

 県内5月の気象は降水量は小浜以外は少なく、春江・九頭竜・美山・大飯は少ないほうからの順位が7でした。気温は一度以上高く三国・越廼・福井は高いほうから3位でした。日照時間は全県で高く9か所全てが多いほうから1位でした。

 気象庁が5月末発表した北陸地方の3カ月予報は、気温は6月高め、7、8月は低め。降水量は6月は少なめ、7、8月は多めと予想しています。
 

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