奈良県橿原市から和歌山県新宮市を結ぶ路線バスに「彼」はひとり、乗り込む。雪が舞っている。これから長時間、バスに揺られて冬の峠を越えるのだ。指差し確認をしている実直そうな運転手を見て、「彼」はひそかに信頼感を覚える。

 日に3便。停留所は167。高速道路を使わない路線バスとして日本で最長の距離を走るという。しかし、旅の目的は、この路線バスに乗ることではない。仙台市に住む作家の「彼」は、東日本大震災の後、「水辺の災害の記憶を訪ねる旅」を始めたのだ。

 この日、「彼」が向かっている奈良県十津川村は、1889年に「十津川大水害」に襲われ、東日本大震災のあった2011年には「紀伊半島大水害」に見舞われている。

佐伯一麦の私小説『山海記(せんがいき)』は、自分を「彼」と呼び、路線バスの旅を克明に記してゆく。目指す十津川まで4時間半近く。バスの中で「彼」は、運転手や同乗者の様子、土砂災害の傷跡などを観察し、停留所の地名の由来や土地の歴史に思いを馳せる。

 道中、胸に去来するのは、これまでの旅で見てきた数々の被災地の光景であり、東日本大震災直後に目にした惨状とその後の日々である。自身の過去もよみがえる。幼い頃に味わった屈辱、電気工をしていた頃の苦労、友の自死といった記憶が、たびたび頭をもたげるのだ。

 結局「彼」は予定した十津川まで行かず、手前の停留所で降りてしまう。そして「谷瀬の吊り橋」の上で「無音の繭の中」にいるような気分に陥り、動けなくなる。この吊り橋の上で「彼」は行きづまってしまうのだ。

 その時やっと「彼」は、友の自死を受け入れる。「これまでのさまざまな死者たちを吊り橋のこの一点が焦点のように受け止めている」と感じる。静謐な小説の、さらに静謐なクライマックスである。

 次の場面は2年後、語り手は再びこの吊り橋の上にいる。ただし人称は「彼」から「私」に変わっている。

 2年前、この路線バスの旅から帰ってすぐに取りかかった小説では、友の死からまだ日が浅く、生々しくなることを避けて主人公を「彼」として書き続けた。しかし吊り橋の上で立ち往生した場面で「小説も立ち往生してしまったように思われた」。そこで「私」は小説の中の「彼」の足取りをたどるように、もう一度旅をしたのだと明かす。読者は再びこの「災害の旅」に付き合うことになる。

 災害や死者たちの記憶とどう折り合いをつけるか。それを探る旅である。そのことがいかに難しいかをかみしめる旅である。そして「彼」から「私」に至る苦難の旅でもある。

 「この国では、どこに住んでいようとも、一生の間に一度は大きな厄災に遭うことを覚悟しなければならない」と著者は書く。海は荒れ、川はあふれ、山は崩れ、大地は割れる。自然の脅威の前で、人間という存在は、かくもはかない。

 孤独な旅は、まだ続いている気がしてならない。読み終えた今も、冬の路線バスに揺られている。

(講談社 2000円+税)=田村文

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