最近、井上ひさしの直木賞受賞作『手鎖心中』を再読した。語り手は、絵草紙作者志望の近松与七。戯作者として成功している山東京伝に、与七が教えを請う場面がある。京伝は「戯作などというものは、教えるべきものでもなく、学んでどうなるという道でもありません」とにべもない。それどころか「戯作では食べてはいけませんよ」と言うのだ。

 誰からも勧められなくても書き始める。食べてはいけないと念を押されても書かざるを得ない。そんな人間が作家なのだろう。本書『藁の王』にも、そんな作家の「業」が刻まれている。

 主人公は大学で創作を教えている作家。著者である谷崎由依自身を思わせるような設定で、小説を書くとはどういうことか、それを人に教えることはできるのかという問いに、痛々しいほど真っすぐに向き合っている。

 「わたし」は小説家としてデビューしたものの、出版された本はまだ一冊、しかもそれすら絶版になってしまった。そんな「わたし」が大学で創作を教えることになった。

 大学には若者があふれている。彼らは学生で、「わたし」は教師、でも教師であることがしっくりこない。「教師のふりをするのは疲れる」と感じている。

 大学構内の大きな木々がかたまって生えている場所を、ひそかに「森」と呼んでいる。自分の部屋にいると、構内にいる幽霊のような存在を感じる。ぱたん、という扉の音を聞くと、幽霊たちが「森」を目指して出て行ったのだと思う。

 そんな「わたし」のもとに、袴田マリリという学生がやって来る。A4で50枚近くありそうな原稿を持ってきて「小説家に、なろうと思ってるんです」と告げる。しかし「わたし」はその原稿を読むことをやんわり拒む。マリリは唐突に言う。「あの森です。怖いんです」。マリリも、あの森の秘密を知っているのだろうか。

 やがてマリリは「わたし」のゼミの一員となり、同じくゼミに入った魚住エメルと仲良くなる。辛辣な批評はするが、自分が書いたものは見せようとしないエメル。マリリとエメルを見ているうちに、「わたし」は自分の学生時代を思い出す。「わたし」と「彼女」の関係のことを。

 共通点は書いていることだった。「彼女」にはずっと書き続けているノートがあった。「彼女」に「どうして書くんだと思う?」と聞かれて、こう答える。

 「わたしが書くのは、許せないから。何も残さずにこのまま死んだら、そんなのは絶対に許せない」

 「彼女」は彼女で、いらだっているようだった。言葉というものに。言葉は無力で、だからもう見切りをつけたいと思っていた―。

 作家は、小説を「誰か」のために書くのか。それとも、たとえ誰にも読まれなくても書くのか。そんな根源的な問いも示されている。

 フレイザーの『金枝篇』がメインのモチーフになっているほか、フーコーの『言葉と物』やリルケの『マルテの手記』も作品に絡んでくる。ウルフやオコナー、サリンジャーといった作家のエピソードも出てくる。物語が多義的に、重層的に語られてゆく。

 小説家にとっての不幸は小説を書かないこと以外にはない、とサリンジャーは言ったという。「わたし」は学生時代を振り返って思う。「読んで欲しい相手がいたとすれば、それはたとえばリルケだった」

 単位のためにと割り切って書こうとする学生、書くことの泥沼に陥って、苦しむ学生…。小説を書くことを学んでいる学生に、書きあぐねている作家の「わたし」が何を語るのか。

 小説を書くということの底知れない恐怖と快楽が、さざ波のように繰り返し打ち寄せる。

(新潮社 1800円+税)=田村文

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