【越山若水】初老の男が渓流のほとりにある大きな石に向き合って座り、ぽつりぽつりと話しかけている。言葉を教えているのだという。もう13年になるが、村人たちは別に奇異なことだとも思わない。むしろ親しみを込めた目で見守っている▼東北の山間(やまあい)の村で、とその一文にはある。興味を引かれて読み進めると、これはノンフィクション作家の柳田邦男さんにとりついた幻覚だった(「壊れる日本人再生編」新潮文庫)。あるとき、もしかして石に言葉を教えることができるのではないか、と考えた。すると幻覚に筋道までできたのだという▼きっかけは、夏目漱石の俳句だ。〈底の石動いて見ゆる清水哉(かな)〉。水の流れで小石が揺らめいて見える。それだけの句のようで、単に現象を描写したのではない。漱石の心理を投映している。思えば日本人は古くから山川草木に心を映してきた。ならば石に言葉を教えるのもごく自然の営みだろうと柳田さんは思ったのだ▼安倍首相が、北朝鮮の金正恩氏と無条件で会談する考えを示した。米ロなどとの会談で成果が得られず、金氏は手詰まり状態。いまなら話し合いに応じる、との読みなのかもしれない。こちらも拉致問題の解決に一刻の猶予もない。利害は一致する▼何年話しかけようと石は応えない。それでも誠を尽くすのが日本流。まして、相手は同じ人間だ。対話の扉を開いてほしい。

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