そして、3月も終わりになって、ジャガイモを植えるために畑に行く途中、通りすがりにふとその畑を見ると、その畑はきれいに耕されていて、ジャガイモの畝は何と3列にもなっているのです。教えられたように空いたところには草が生えないように黒いビニールのマルチが張られているのでした。‘火が付いた ‼ ‘ とっさにそう思えました。ご主人がやる気になられたようです。ご主人の生命体(エーテル体)が活動し始めたのです。

 よかった!よかった!。こうした経過を亡くなられたお母さんはどんな思いで見ておられることでしょう。そして、畑から戻られたご主人からジャガイモの芽が一つ出てきましたとか、1列出てきましたとか、でもまだ1列は出て来ないのですとかいう報告もいただいているのです。

◆生きた概念(学び)、死んだ概念(学び)

 『今を生きる 高橋巌講演録2』(2011年12月11日発行 昴・日本人智学協会関西支部)によれば、

 シュタイナーは生きた概念、死んだ概念という言い方をしているというのです。

 生きた概念だと、ある世界観、価値観に関する観念を身につけるとき、感動できたなら、その観念が自分の中に入ってエーテル体(生命体)と結びつき、いのちを得て、成長していくのです。ところが死んだ概念は、感動しないで知識として記憶するだけだと、意識の表面に固定して、そのまま何年たっても同じ知識であり続けるのだというのです。

 概念を学ぶ時に、単なる知識をふやすのでしたら、内的には何の意味もないという。百科事典を担いで歩いているようなものなので、電子辞書をポケットに入れていれば十分だというのです。概念を身につけるとは、ある概念が自分の中で生きはじめるということなのだというのです。しかし、概念を生かすには、概念をエーテル体(生命体)の中に刻み付ける必要があるという。何かを学んで身につけるには、その何かが自分の中で生き始めなければならないのですが、その時の生きるエネルギーは、エーテル体(生命体)のエネルギーなのだというのです。

 子どもの時に死んだ概念を学ぶということは、将来社会に適応した生活を営む上では大事かもしれないが、もっと大事なのは、生きた概念をたった一つでもいいから子どもの心にもってもらうことだというのです。

 昔話や伝記が大切なのは、もっぱら生きた概念を持つためだと思うといわれるのです。

 先生が何か一つを子どもに一生懸命に語るとき、その時わからなくても、子どもは先生の熱を敏感に感じ取って、何年も経った後で、あの時あの先生が一生懸命話してくれたのは、このことだったのだ、と思い当たって、その時の先生の思いがわかったとき、それが生きた概念になって子どもの心を支えてくれるのだというのです。先生の熱というエーテル体(生命体)が、子どもの心の熱に伝わって、概念が熱いかたちで子どもの無意識の中に入っていくと、子どもの中でそれが命を得て育っていく、という教育なのだといわれるのです。

 シュタイナーは『一般人間学』の中で、このことに対して次のような簡潔な言葉でまとめられているのです。

認識(思考・表象)→ 反感 → 記憶 → 概念
意志 → 共感 → 想像力 → 形象作用 

 一見簡潔にまとめられているようですが、その内容を理解していくとなるとそう容易ではありません。

 しかし、『シュタイナー教育入門』( 高橋巌 著 角川選書)にはその理解を深めるための解説がなされています。それでも、その理解はなかなか大変ですが、進めて行きましょう。

 はじめに「共感」と「反感」についての解釈から見ていくほうがその理解をより容易にしてくれるようにおもいます。

 「共感」と「反感」は、シュタイナーによれば、魂の二つの基本的在り方だというのです。

 魂は「反感」と「共感」を通して自己を表してしていて、魂の働きは、動物にもあり、植物にも、無意識的にはあるといえるというのです。

 基本的にはどんな生体も自分の中に同化できるものを持った時に「共感」、そうでないときには「反感」を生じさせるというのです。

 精神の構造が分化、発達すると、共感と反感の働きも非常に複雑になり、その結果出てきた反感の究極の姿が「知性」であり、共感の究極の姿が「意志」だというのです。

 「意志」は何かのために、何かを実現しようとしたりするときの人間の基本的な衝動、働きであり、表象作用※や知的作業は、対象を自分から離れたところにおいて、それが何物であるかを判断する作業なのだというのです。それは反感の高次の在り方だというのです。それで反感があまりに嵩じるとその人の魂は非常に疲れてきて、どんどん自分のエネルギーが奪い取られ、魂が弱っていってしまうのだというのです。ところが共感の中を魂が生きていくと、外からいくらでもエネルギーを得ることができるので、魂は非常に力強くなるのだというのです。知的な作業、例えば本を読む行為は、自分の中から知的な表象※を、どんどん意識の面前に引き出し、そしてそれを目の前にして、判断し、評価するわけですから、夢中で本を読んでいけば、当然その人の魂は、弱まっていかざるを得ないわけですが、その本の内容によって、共感の対象であるような、例えば面白い本であるとか、感動的な本であるとかという共感の働きが反感以上になってくれば、本を読んでも魂は養分を得ることができるのだというのです。