【越山若水】幕末にロシアから、今の大統領と名前がちょっとだけ似ている外交官がやって来た。1855年2月7日、国境を「択捉以南は日本領」とする日露通好条約に調印したプチャーチンである▼辛抱強い人だったらしい。ペリーがいきなり浦賀に現れたのに対し、まず長崎を訪れた。ここが当時の「日本の玄関」だから礼を守った▼大阪や下田と、交渉場所を日本側に振り回されても友好的な態度を貫いた。安政東海地震の津波で船が壊れる憂き目に遭ったが、被災を機に日本人と交流を深めた▼むろん外交官である以上、ロシアの最恵国待遇を認めさせるなど、自分の国のために働いている。ただ、帰国後も日本人留学生に便宜を図ったり、公使館に助言したりと日本へ協力を惜しまなかった▼明治政府は彼に感謝し、勲章を贈った。交渉先からの異例の叙勲に当人も驚いたろうか。礼状には「日本国民の幸福増進が切なる願いです」とつづっている(白石仁章著「プチャーチン」)▼橋本左内が「ロシアは信義に厚い」と評したことは、以前も小欄に書いた。交渉団の様子を知っていたからと想像すればうなずける▼旧ソ連はプチャーチンが失った船「ディアナ号」の模型を1970年の大阪万博で展示した。彼の名が残ったのは双方の利益を考え抜いたからに違いない。日ロ交渉に当たる政治家に知ってほしい逸話である。

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