【越山若水】小説家の故丸谷才一さんは作家とは思えない勘違いをしていた。それは教科書でもおなじみ、太宰治の著名な短編「走れメロス」に関するとんでもない誤解である▼丸谷さんは編集者との閑談で「あの『走れメロス』といふ遅刻する話…」と語りかけた。すると彼はあきれた様子で「あれは遅刻しなかつた話です」と返した▼「え?間に合つたの」と問い直すと、毅然(きぜん)とした口調で言い放った。「はい。がんばつて間に合ひました」。どうやら遅刻常習者だった丸谷さんの思い込みらしい▼自らの失態をエッセー集「双六(すごろく)で東海道」(文藝春秋)で告白。ただそこから宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島決戦、真珠湾攻撃と日米開戦通告といった「遅刻論」を展開するあたりはお見事である▼さて閑話休題、外電を探していたら少し変わった記事があった。本紙に詳細は掲載されなかったが、地震と津波に襲われたインドネシア・スラウェシ島発のニュースである▼地震発生で刑務所7カ所から約1400人が脱走した。ところが約300人が家族の安否を確認した上で、4日以内に刑務所に自ら戻ってきたという▼まるで「走れメロス」を地で行くような話であり、警察も「彼らは家族に会いたかっただけだ」と説明している。もちろん脱獄したままの囚人が多い。それでも家族思いの律義な受刑者がいることにホッとする。

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