しかし、子どもの中に、その子の「真の姿」を見出すことは、そうたやすいことではないでしょう。まして、今親になったばかりの人にとっては、なお更のことだと思います。あかちゃんの泣き声一つ聞き分けるのだって大変なことですものね。

1本の木の中に仏を見出した修行僧や、宮大工の人たちは、修行や長年の体験によって私たちの感覚では捉えられないものを捉えることができる感覚が開かれ、その目で木を熟知し、そうした仏を見出すことができたのでしょう。でもはじめから何もかにもが見えるわけではないとおもいます。さまざまな大変な修業の後に、感覚が研ぎ澄まされ、そうした感覚が開かれてきたのではないでしょうか。

あまり知られていないことかもしれませんが、幼児とかかわる人は、本来は、子育てやいろいろな人生経験をし、人生をある程度見通せる年齢になった人がふさわしいといわれています。

最近の子どもへの虐待のニュースを聞いたり、時折、外で見かける若い親御さんが感情に任せて子どもを怒鳴りつけている光景に出会ったりしたとき、そんな親御さんと、川の上流のまだゴツゴツとした大きな岩のイメージが重なって見えてくるのです。

いろいろな人生を経験し、大きな岩も角がとれ、細かく砕け、感情のコントロールもできるようになった川の下流の細かい砂のような年齢にもなれば子どもを見る目も、そのかかわり方もおのずと違ってくるでしょう。

つい最近まで日本においても、子どもの世話をするのはお年寄りの仕事だったのです。また子どもの多い南の島でも、島で育つ子はだれかれの区別なく、自分の子どもと同じように育てたといいます。ですから、たくさんの子どもの面倒を見た島の女の人はまさに「お袋」という名がふさわしい、とても大きな懐でそこに抱かれた子どもはゆったりと安心しきっているのです。

子どもは、生まれてきたときに既に携えて持ってきているものがあるということが受け入れられ、子どもから全身全霊で学ぼうとする姿勢、それは子育てを終えた後になって、ようやくできることなのかもしれません。よく言われることですよね。“わが子では間に合わなかったから、孫には!!・・・”と。

それまではどんなに口をすっぱくして言っても、なかなかわからないことなのかもしれません。しかし、日々、子どもの中に秘められているその「本来の姿」を見ようと子どもに向き合うのと、はじめから子どもは無能者だからと思ってかかわるのでは、子どもとかかわるかかわり方はおのずと違ってくるでしょうし、向きあう大人自身の意識やその在りようにも大きな違いが出てくるように思います。

もう7、8年も前になるでしょうか。こんなことがありました。北海道で「ひびきの村」という共同体を主宰しておられる方から、ニューヨークの大きなシュタイナー学校に在籍中の少年〈中学か高校生だったとおもいます〉を福井で少し預かってほしいとの依頼がありました。