ですから私たちの子どもの頃には(小学時代)、自分たちで楽しく遊ぶためのいろいろな工夫をしました。砂浜から波打ちぎわを超え海の中へと続いている少し高めの岩場でよく遊んだものです。その一角にすべるに格好の少し幅の広い、中央が緩やかにくぼんでいる岩がありました。近所の遊び仲間のうちの誰かが、多分その役割はいつも男の子たちだったようにおもいますが、海水を炊くために作られていた小屋から藁を持ち出し、めいめいがそのわらを順番に使って、すべるときにその岩に上から砂をまき、より滑りやすくして滑って遊んだものでした。いつもそこを子どもたちが滑る場所として使っていたのか、滑るに都合うよく滑らかになっていたのです。

 その岩場から少し離れた平らになった空き地に、それからずっとあとになって、滑り台が一台取り付けられました。一度だけ近くに住んでいるおじいさんが孫を滑らせているのを見かけましたがいつ通ってもその滑り台は使われていることはなかったようでした。

 子どもながらにも、あのみんなでわらを持ち出し砂をまいて滑った楽しさは、できた滑り台をすべる楽しさと楽しさが違うことをそれなりにわかっていたのだということが思い出されてきたのです。今ではそんな岩場もずっと昔に砂の下深くうずまってしまい跡形もありません。

 このことを逆に考えてみたらどうでしょう。子どもが大人によって考え出された遊具でしか遊ぶ経験がなかったとしたら、自然のなかであるいは自然なもので遊ぶことに目をむけ、興味、関心をもつことも少なくなるように思われます。まして自らがそのなかに楽しみを見つけ、その楽しみを味わうことはとても困難になってくるはずです。刺激性の強いものにはすぐに引かれがちですが、反面すぐに飽きてくるのです。

 海や、川や、山や、林や、森や、いやそこまで行かなくとも近くの野原で小さいときから十分に遊んでいるとそれらの奥深くに秘められているさまざまな楽しみが見出され、体得されてくるのです。それはまるで野原や、海や、川や、山や、林や、森の懐深く包み込まれているさまざまな楽しみの世界にその子に応じて少しずつ誘って(いざなって)くれるかのようです。そしてふたたびそこを通るときいくつになってもまるで声をかけられたかのように胸がときめき足を止めてしまうのです。

 こうした遊びはとても素朴で地味な遊びのようにみえますが、実はこうした遊びこそ子どもの中からあらゆる力、あらゆる感覚、想像力、忍耐力、意志力、勇気、決断等々の力が総動員されるのです。と共にこうした遊びを積み重ねていくなかでそうした力も育まれていくのです。
 
 次回でも、もう少し子どもの世界に下りて、そこからいろいろなことを考えてみたいとおもいます。