とても難しいことではあるのですが、現実から逃げないで現実から目を離さず、しっかりと見極め、不安や恐怖によって引き起こされているものの中から立ち上がってくるその意味を、その本質を明らかに見極めるなかで、自分の在りようやなすべきことが見えてくるというのです。

参照『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(R・シュタイナー著、高橋巌訳、イザラ書房)

また大正大学の基礎を築かれたという山崎弁栄聖者(安政6年2月20日~大正9年12月4日)はその遺稿抜粋「人生と光明」に次のように書かれています。

「人の心霊はよく練磨して気質のサビがなければ、いかなる困苦も、いかなる境遇にも泰然として不動のこころをもって安ずることができます。事毎に対し非常に憂愁し煩悶(しんぱい)するごときは、出来事のその性質において苦であるというのではなくて、これに対する人の精神中の煩悶そのものの煩悶と感ずるのであります。このような苦難はしばしば経験するにしたがって鍛錬され、その功を得ることができるものであります。痛むべきことではなくして、真実の修行を望むならば、かくのごとき憂いはむしろ歓迎すべきことであります。ミオヤに対して将来わが身を無事にして種々のことの起こらぬようにと祈ってはなりません。それよりは、いかなることにあうとも安然(やすらか)として不動(うごかぬ)の心力をあたえ給えと祈りなされよ」。

山崎弁栄聖者は大正時代の方で、各地の寺を布教のために回られ、福井においても私たちの寺(泉通寺)を始め浄土宗の各寺を回られて布教のための「お名号」(南無阿弥陀仏と書かれた掛け軸)や経文で描いた「仏画」や米に書かれた「米粒名号」などが寺や檀家さんの家に今でも沢山残されてあるのです。聖者の行き先々で生じたいろいろな不思議には枚挙のいとまがないほどです。

2月16、17日と、瀬戸内海の一つの島である生口島、瀬戸田を訪れました。

山崎弁栄聖者を深く信奉され大変な念仏行者でもおられた浄土宗の寺のご住職が亡くなられたためです。その島は日本画壇の最高峰に位置される平山郁夫画伯の生まれ、育たれた島でもあり、その平山家はその寺の檀家でもあるのです。

そのご住職が布教のために福井に来られた折、平山家は柴田勝家の血を引く家系でもあり、福井とも関係してくるのでそのことを伝えたいということで柴田神社にご案内したこともあります。

先日島を訪れた折、ご住職がなくなられる2年前には書かれてあったという冊子『念仏者のよろこび』を拝読させていただくことできました。その冊子がご縁で弁栄上人の遺稿集を改めて紐解くきっかけとなったのです。

今、こうした多大な被災を受けて今後の日本がどうなるのか。その復興はなるのかという不安と共に、私たち一人ひとりがどうあったらよいのか、今何ができるのかという問いが私たち一人ひとりに厳しく突きつけられているように思われます。

そしてある講座でつい最近ご紹介いただいた「唯識の読み方」には下記のようにも書かれています。

「人間の深層の<こころ>の「阿頼耶識」と名づけられているところは、これまでの溜め込んできた善いこと悪いこと過去のすべての経験の総体だといわれるのです。しかし、阿頼耶識は「無記」といって善にも入らず、悪にも入らないというのです。いくら善行を積み重ねてきていても、今日唯今、奈落のどん底に堕ちる可能性もあるし、大変な悪業を積んできた一人の人間がある日、決然として善人に生まれ変わるということもあるのです。

私たちが生きているのは、今日ただ今のこの現在のみである。そうすると、その今日唯今の自分が、そこで何を思い、何を語り、何をどれだけきれいに生きるか、汚く生きるかというその事が、自分の人生をきれいにしていくか、汚くして行くかの岐路だといわざるを得ないのである。今をきれいに生きれば、未来がやがてきれいになるのではない。今をきれいに生きれば、直下に自分の全存在全生涯がきれいになるのだという。その一点としての現在は、決して無内容な空疎なものではなく、その一点は、無限の過去と未来が圧縮された一点であることを忘れてはならないというのです。」

いつの場合でも予期せぬ苦しみを受けたとき、それを他人に転化しがちだったり、他者からは「試練」と厳しく見られがちですが、更に深めて自分にとって「恩寵」と受け取ることができるようになると、自分のうちにその苦しみに向き合う向き合い方が大きく違ってきて新たな思いで向き合えるようになってくるように思われます。

今回亡くなられた、多くの方々の安らかな死後への旅路を心から祈念すると共に、被災に会われた方々の一日も早い日常の生活への復帰や、この多大な災害の意味するところをしっかりと踏まえながら、今、一人ひとりのおもいや力が結集され、そうしたなかで新たなる日本の創造が、再生がなされていきますことを心から願わずにはいられません。そのために微力ながらも私にもできることをさせていただきたいと心から願っています。