一般にはあまり聞きなれない言葉ではないかと思うのですが、この「第八領界に落ち込む」ということは、ずっと以前からシュタイナーの講座では、折につけ何かと触れて話されていた言葉なのです。しかし、私には、当時においても、その後においてもその言葉だけが強くインプットされたままで腑に落ちて理解できるまでには至らずに来ていたのです。

「第八領界に落ち込む」とは前著『シュタイナー教育を語る』によれば、自分は本当は何々になりたかったのに、べつの何になってしまったという生活の中のある部分に自分がまともに向かい合えないでそれをどこかで自分以外のところや誰それのせいにしてその責任を押し付けて、自分はやらせてきたと思っている人は知らず知らずのうちに第八領界に入ってしまっているのだというのです。そこからは自己教育が始まらず、その人の内的成長のプロセスが駄目になってしまっているそのような場合を第八領界に落ち込んでいるというのだというのです。

「どんな嫌なこと、いいとおもわれること、本人にとって否定的にしか見えないこと、意味のないと思える人生のどんなことにおいても、必ずその一瞬一瞬の生活体験には意味があるのだが、しかし、どう考えても意味がないと思える状況があって第八領界に落ち込むと第八領界に落ち込んでいるということが自分ではわからなく、やることなすことがすべて無意味になってしまい、やればやるほど、生活が空回りして、先へ進めない。例えば、自分の能力のはるかに及ばない仕事をしている場合や、自分が望まない学校に入ってしまって、その学校生活と自分の内的な要求との間に接点が全然見いだせないままに、学校に通っているというようなあらゆる種類のそういう状況のことを第八領界というのだそうです。

そうした孫の部活選びを背後で見ていて、ひとりひとりの子どもの内面にまでその思いが及んだとき、その学校生活においてはとても多くの時間が割かれていて重要なウエイトが占められているとおもえる中学、高校においての部活活動、学習内容を含めた学校生活にたいして、こうした視点からも見たり、配慮していくことも必要なのではないかと思えてきたのです。

◆二つの立場

幼児期の子どもの教育を考えるときに触れたかとも思いますが、子どもの教育を考えるとき、二つの立場が前提となっているというのです。

一つは、子どもは極端に考えて無能だから放っておいてはよくならない。だから外側から手を加えて、正しく育てていかなければならないという性悪説的立場に立つ考え方。

もう一方には植物のそれぞれの種はそれぞれの存在としてあるのだがそれぞれのその種がよりよく育ち、実るように、周りがより良い環境を整えて種を育てる園芸家のように、子どもは善きものをもって存在しているという、生まれてきた子どもを祝福し、そのままの在り様を肯定して子どもの教育を考える性善説的立場に立つ考え方。シュタイナー教育は徹底して性善説の立場に立つ教育だというのです。

また、この成長期にある男の子と女の子は性の違いということを離れても、性格上の違いが非常にはっきりしてくるというのです。シュタイナーは女の子の成長はアストラル体が特に発達し、宇宙に向かって開かれた状態にあるので、自我との関係も、男の子に比べて調和した、いい関係を持っていて比較して安定した状態で成長していると考えているというのです。男の子の場合、宇宙に向かって広がるというよりも、むしろどこか内側にこもるような形を取りやすく、どこか不透明で、自分でもびっくりするような、思いがけないことをやってしまいかねない時期だと考えているというのです。

そして、アストラル体の発達する時期というのは、意識が明るくなる時期でもあり、意識が明るくなるにしたがって、周囲の世界とのかかわりを深めて、周囲の世界に適応しようとする行為をますます活発にしていく時期でもあるのだということです。ですから意識が明るくなると、子どもが社会に関心を向けるようになるそういう能力がはっきり現れてくるというのです。外に向かって開かれたアストラル体が、外に適応しようと思うときに、適応できなくなると、自分の内的な心の状態に納得できなくなってしまうということです。

男の子もやはり意識が明るく目覚め、特に因果関係という知的な問題が気になるようになるにしたがって、自分のアストラル体の能力で外との関係を作っていこうとするのですが、女の子のようにストレートに、外と自分との調和を無条件に喜べないのです。そこに不透明な関係が生じて、外と自分との関係をうまく機能させておいて、むしろその中で自分が勝手なことをやるという方向に行きやすいというのです。

ですから、14歳から21歳までの教育にとって、一番大切なのは因果関係に関する問題を学習できるようにすることと、外に対する適応力を身につけさせることだというのです。 

この時期の子どもの論理性を否定したり、外に対する適応衝動を否定したりした場合、その子が大人になったとき、本質的に社会と関わらない状態でも,生活さえ安定していればいい、と思える人になってしまうというのです。

ですから、シュタイナー教育ではこの時期に子どもは、論理的に、つまり因果論的に物を考えること、外に対する適応能力をつけることを、あらゆる強化を通して学ぶのだというのです。

例えば学校の所在地がどういう町なのか、人口がどのくらいで、どういう産業があり、どういう階層の人たちが住んでいるのか、年齢層で分けるとどうなるか、例えば十代は人口の何パーセントか、というようなことを調べるだけで、論理的に関わることになります。そういうことを、先生は子どもと一緒に考えながら社会との関係を深めていくのだというのです。

そうした学びの実例として適切であるかはわからないのですが、4月10日子ども文化館で行われた近代史研究の第一人者である本川幹男先生による講演会「福井藩が目指した明治維新」がありましたので孫と聞きに行きました。今、福井市は市を挙げて由利公正を大河ドラマにと動いています。由利公正の講演会では松平春嶽、橋本左内、横井小楠、坂本龍馬など歴史的に著名である人についても必ず話されます。しかし、今回の講演会では、私たちの身近な町や村に住んでいて、これまでの講演会ではあまり、登場することのない、私には初めて耳にした、財政安定と農政転換に登用されたという長谷部甚平や勝木十蔵や、福井藩の体制を整えるために福井城下の山口小左衛門や三国の内田惣右衛門など、豪商、豪農の存在にも詳しい資料を基に視点をあてて話されていました。一般には中央的日本の歴史的流れとのつながりに視点をおいて主たる登場人物の活躍や活動について話されることが多いのですが、今回はその視点をより一層私たちの身近な福井藩内に向けて、福井藩内でのそうした人々の細かな制度や動きや働きについても話されたのです。福井藩の財政の立て直しに私たちの身近な所に住んでいた人々の尽力があったことを新たな思いで聞かせていただき、そうした時代の出来事がより一層現実味を帯びて、身近な出来事として拝聴することができたのでした。

私たちが学校で学んだり、子どもたちが、学んでいる学びには、なかなか生き生きとした感情を通して自分たちの身近なつながりの出来事として学べることが少なく、そうしたことにも、こうした世の在りようやその流れが反映しているように思われたのです。

後日、先輩の通う中学では、先輩の生徒さんたちが孫もいつになったらくるのか。早く来て一緒に稽古に励むことを待っていてくださるということを聞かせていただきました。

今の時代は、私たちの娘の中学時代とは違って、少子化ということもあるのでしょう、子どもたちの思いを少しでも汲もうとする融通性や配慮が学校や、社会全般の努力がなされて来ているということです。

今、オリンピックや国体を目前にして、その助成もあってか、大変喜ばしいことには、スポーツの世界も障がい者や障がい児に対してこれまでと随分と違って大きく開かれてきているのです。

しかし、スポーツに関わる世界では、子どもたちは優勝や、優位を目指して励み、学習においてはより良き学校への進学を目指して励まなければならないという、結果が勝敗の世界に収束していくという現実は、まだまだ多くの人がそうあるものとして受け止めていることには変わりないようです。

スポーツを心から楽しんだり、そこからいろいろなことを学び合ったり、学習する喜びを知って、積極的に自らが学習への興味、関心、意欲を高め、深めていけるようになるまでにはまだまだ先が長いようにも思えるのです。

そして、剣道部の先輩の生徒さんたちの温かい思いに対して、孫はこれから自分でどんな道を切り開き、そのために、どんな道が開かれていくのでしょうか。