「ONODA」で主演を務め、インタビューにこたえる津田寛治さん=都内

       

 

 太平洋戦争後、30年近くも終戦を信じず、フィリピンのルバング島の密林で戦闘を続けた元陸軍少尉、故小野田寛郎さんをモデルにした映画「ONODA 一万夜を越えて」が10月8日から福井県福井市のテアトルサンクなどで全国公開される。小野田さんの壮年期を演じた主演の津田寛治さん(56)=福井市出身=が福井新聞の単独インタビューに応じ、2020年2月のほぼ1カ月にわたるジャングルでのハードなロケの様子などを語った。映画の出来についても「終戦にうすうす気づきながら、なぜ小野田さんが30年も戦い続けたのか。戦争の愚かさや悲しみなど、今の日本人にいろんな思いを問いかける」と手応えを感じたようだった。(聞き手・加藤佳紀)

小野田さんのように痩せるのは、難しかったですね

インタビューに答える津田さん=都内

 ―本日の試写会(8月20日)で小野田さんの遺族が「小野田本人に見えました」と言うほどの熱演でした。素晴らしい映画でした。月並みな質問ですが、ジャングルでの撮影はどれくらい、あったのですか?

 津田 2019年の2月、ほぼ1カ月ほど行ってました。(※マネジャー発言 「1月31日に飛行機出発 2月1日~28日です。2月だから31日丸々はなかったです」)

 ―ジャングルでの撮影は初めてですか?

 津田 密林という感じのあんなジャングルでのロケは初めてです。

 ―ジャングルでの撮影で一番大変なことは何ですか?

 津田 月並みですけど(笑)、虫ですかね…。雨は意外と降らなかったですね。雨期じゃなかったせいか。だから(撮影用に)やたら雨降らしをすごくしていました。スコールが、僕の出ていた場面でもありましたが、青年期のシーンを通じ、全部雨降らしじゃないですかね。大きなタンク車が来て、雨を降らしてましたね。

 ―減量は大変でしたか?

 津田 いや、1年間かけて70キロ近くから55キロまで落としました。13キロ。高校生時代の体重に戻しましたね。高校以来(の体重)に戻った。ただ、痩せなきゃいけない役作りが続いたので…。「ONODA」の為だけじゃなかったんです。

 ―ジャングルでの耐久生活を30年もやってた人になるために、減量にも工夫があったのでは? やつれた様に見せようとか。

 津田 いや、筋肉をつけながら痩せましたね。小野田さん筋肉隆々だったんです。向こうでサバイバル生活を送ってましたから、やっぱり筋肉は絶対ついていたはずなんですね。やっぱりね、基本的な体形が小野田さんと僕とは違いますし、写真で見るようなシュッとした感じにはならないです。うまく、どれだけ痩せても、ああいうふうにするには、つけるところはつけて、無くすところは無くすという、ちょっと難しいデザインをしなくちゃいけないところはありましたね。

 ―13キロとは、今まで役作りでそこまで減量をしたことは?

 津田 ありますね。がん患者の役とかだと、げっそりな感じだとか。

 ―慣れているというわけじゃないと思いますが、これまで何度かあるんですね。

 津田 (これまで)太んなくちゃいけない、という役づくりがなかったので。また太るのは相当、痩せるよりも倍ぐらい大変だ、と言われるから。それは経験はしていないので。まあ痩せるのが多いですね。

 ―(身長173センチで)55キロまでやせるのって、できるかな、と思っていましたか?

「ONODA 一万夜を越えて」の一場面(配給:エレファント・ハウス)

 津田 いや、結果55キロになったって感じで、55キロを目標にしてきたわけではないので。そして、つらいというよりは、ある時点から転げるように痩せ出して。まずいな、俺このまま行ったら死んでしまうんじゃないか、と心配な時はありましたね。そうですね。人って、ある時点を超えると転がるように痩せるんだ、と思って。こうやって餓死していく人は、こんな感じなのかな、と。決してお腹が減ってないわけでは全然ないんだと。

 ―減量って、食べないだけですか?

 津田 食べないのと動くこと。両方ですね。

 ―1日何も食べないんですか?

 津田 1日何も食べない時もあれば、1日1食だけがあったとか、要はお腹がすかないんですね。本当に。

 ―(減量を進めると)お腹がすかないような体質になっちゃうんですか?

 津田 なっちゃいますね。水分だけで十分に、なってしまうので、無理して食べておかないと。要はこれ以上痩せると、ちょっと役とイメージが変わっちゃうので。そこを、それ以上行かないように、何とか一定を目指して、(物を口に)入れたり、食べなかったり、という感じですかね。

わー、すげえ!フランスの監督が小野田さんの映画撮るんだ

 ―この映画に出演する経過を教えてください。オーディションを受けられたと聞いています。フランス人監督のアルチュール・アラリさんですが、(知っていて)ご自身から受けようと思ったのか、例えば誰かから「受けたら」と誘われたのか?

 津田 (オーディションの)話が来たんですね。アラリ監督が小野田さんの手記を読んで、この映画を撮ろうと思ったのが8年ぐらい前って、その当時おっしゃっていて。多分ね、それが実現できることになって、日本に来て「じゃあ俳優だ」という事になった時に、日本のコーディネーターの方に、大体のイメージを伝えて、それでその方が俳優を見繕った(笑)、って感じですかね。

 ―津田さんの方はどうだったんですか。この話が来て、その時、脚本はもう読んでいたのですか? 津田さんは興味はあったんですか、この話?

 津田 もちろんありましたね。うわー、すげーな、と思いましたね。フランスの若い監督が日本の小野田寛郎さんを映画にするんだって。

 ―津田さんは、当時、監督の名は知っていたのですか?

 津田 知らなかったです。若い、新進気鋭のアラリ監督とか知らなかったです。お話いただいてから、前作の「汚れたダイヤモンド」を拝見した。やはり、すばらしい作品だったので。もうなんかね、あまりにもやりたい思いがすご過ぎて、「絶対受からないぞ」(笑)って思っていましたね。あの、(落ちたら)落ち込みが激しくなっちゃいけないと思って、逆に考えようとか思ってました(笑)。

 ―津田さんぐらいのキャリアで、オーディションで役を得るって普通にあることですか?

 津田 ある時はありますよ。まあ、でも海外の監督だから、(という理由)は大きいかもしれないですが…。

 ―事前に脚本を読んでから、オーディションを受けるのですか? 脚本を読むのは(小野田役が)決まってからですよね?

 津田 えーとね、オーディションでやるところの、抜粋の脚本だけいただいた気がします。

 ―なるほど。映画の題材が小野田さん、というところに興味があったのですか?

 津田 いや、そんなにすごく興味があったわけではないですね。あの当時、小野田さんと横井庄一さんとお二人が帰ってきましたよね。やはり、僕も例に漏れず、そこが混同している状態で、それでお話をいただいてからですね。いろいろと、小野田さんのことを調べてみたら、すごい方だな、と。

 ―それでは、オーディションを受ける段階で、少しずつ小野田さんのことはご自身で調べられたんですね。

 津田 そうですね。

 ―最終的に原作(小野田さんの著作)みたいな本も読まれたんですか?

 津田 読みましたね。

 ―原作ってあるんですか?

 津田 何冊か小野田さんは出されているんですよ。

 ―役が決まったこともあって、(役づくりのため)小野田さんに興味が湧いてきた?

 津田 そうですね。

 ―途中で、こんな(小野田さんを)自分が演じられるかな、という不安みたいなものはなかったですか?

 津田 まあ、もちろん、それはありましたね。やはり、その、何と言うんですかね、大和魂というんですかね…。今の日本に大きく欠けていることを持って帰っていらっしゃった方、というのがひとつあって、そこがすごく興味深い部分でもあったんですけど。日本ではない場所で30年間、海外のジャングルに居たことで、その大和魂ってものをすごく強く持っている日本人になった、っていうんですかね。もし、日本に帰ってきていたら、高度成長期に揉まれて、やっぱりね。(価値観?)どんなに強く持っていても無くすものは無くしていったのかも知れないけれど、小野田さんは全部それを持ったまま、高度成長期の日本に帰ってきて。帰ってきたからこそ、そのギャップに苦しんだ。

 ―なるほど。

アラリ監督「オノダの本は一切読まないでくれ」 

 津田 そのサマというのが、やっぱり痛いほどピュアな感じで、心に響きましたね。

 ―本を読んで、ですね?

 津田 帰ったら、とりあえず、自分たちの仲間で亡くなった人たちの親御さんの所へ行って、親御さんなり、ご家族の所へ行って、そのことを報告しなくちゃいけないし、あと靖国(神社)へ行って、英霊たちにあいさつをしなくちゃいけない、という思いがあったのに。ままならないまま、マスコミの中に揉みくちゃにされていくわけじゃないですか。その時の気持ちとか、それは大和魂をしっかり持った日本人だったからこそ、あったんだろうなと思いますね。

 ―なるほど。だから、すぐに小野田さんはブラジルへ移住してますよね。

 

 津田 やはり(当時の日本と)肌が合わなかったのか、というのか。結構やっぱり、無礼な事も聞いてきた周囲の人たちが、それもやはり「日本が変わったんだ」だろうな、昔の日本だったら、ひょっとしたら、そんなこと聞いてこなかったかもしれないし、相手のことを思いはかって。そういうこともズケズケ聞いてくる中で、「ああ、日本も変わってしまったんだな」と思われてブラジルに行かれてしまった、みたいなことが書いてありましたかね。

 ―だんだん、小野田さんのことを理解してきて、役作りに入っていったわけですね?

 津田 そうですね…、難しいところだったんですよ。監督にも「どんな本を読んでみたらいいですか」と聞いてみたら、「一切本は読まないでくれ」と。「脚本だけを読んでおいてくれ」と。

 ―ほお?

 津田 最初、意味がよく分からなかったんですが、現場に行ってみたら、やっぱり分かったんですが、監督は、ドキュメンタリーというか、小野田さんを忠実に映画にしたいわけではない、というのがひとつ大きくあったので…。あんまり、そのね、小野田さんの思いに偏ってほしくない、という監督の思いがあるんだな、と思いました。

 ―そうなんですか?

 津田 実際そうなんです…アラリ監督、今もそう思って、この映画を世に送り出しているので。

 ―なるほどね。あの…、外国人監督さんの演出の下、映画を撮るというのは、今まであるのですか?

 津田 初めてですね。いやー、本当に。

 ―難しくなかったですか。通訳さんを挟んで、コミュニケーションとか十分に取れましたか?

 津田 難しかったです。すごく、通訳さんを挟んで演出される感じというのが初めてだったので。こんな感じか、ちょっと戸惑いましたね。

 ―日本での撮影とか違うわけですか?

 津田 何と言うかな…、本当に普通に考えた感じの通りなんですが、(演出の指示が監督から)ダイレクトに来ないわけじゃないですか。監督がこっち向きながら、俺の演出をしている、と言うんですかね。通訳さんの方を向きながら演出をする感じが、何て言うのかな、自分が置いてかれてる感があって、通訳さんがそれを僕に言っている時に、時には「本当に監督、これを言ったのかな」という、変な、疑心暗鬼になってるわけですよ。しかもジャングルでのハードな撮影ですし…。そこを、これが監督の言葉なんだ、と思うのがすごく難しかったというのがありましたが、ただやっぱり(自分が)監督の演出というものに集中し過ぎていたんだな、と途中で思って…。それは翻訳している方、若い日本人青年ですが、彼がものすごく熱くハートのある子で、作品のことをめちゃくちゃ真剣に考えている子だったので。その子なりに…通訳しなくていいこととか、あと彼が言ったことを、ちょっとこういう風にして言った方が分かりやすいだろうとか、いろいろアレンジして言ってたりして…。

 ―通訳さんは日本人だったんですね?

 津田 そうです。まだ若い20代後半か30歳くらいの方で。

 ―アレンジしながら監督の指示を通訳するんですか?

 津田 そうなんです。だから撮影が終わった時にでも会った時に、彼も言ってましたけど、それって、すごく危険なことだし、難しいんですよね。「それってやめてくれ」って言う俳優さんもいるかもしれない。でも彼の熱量がすごく高かったから、それが功を成したんですよね。いろんな俳優さんにとって、僕にとってもそうだし…、間違っていないことをちゃんとやってくれた。アラリ監督もすごく彼を信頼していたから。
 こういう外国の監督とやる時には通訳さんの立ち位置って、めちゃ重要だな、って。(監督の指示を)熱く伝えるのか、淡々と冷めたままやるのか、良くも悪くも作品の色が変わっちゃうわけですね。通訳さんのやり方ひとつで。僕なんか、本当に通訳に演出されているのか、という気になっちゃうわけですよね。そういうところとの闘いもやっぱりありましたけれど、結局、やっぱり監督との1対1で考えずに、チームで映画を作っているというところに意識を持っていかなくてはいけない、と。やっぱり、グローバルな現場ってそうなんだね、という気がしましたね。日本だと、監督対俳優が密で、グーっと入りがちなんですが、海外はそうじゃないんだ、と。ハリウッドも多分そうじゃないんだと思います。

 ―その体験は、勉強になりましたか?

 津田 なりました、すごく。

フランス人監督ならでは、日本人が「はっ」とする演出

 ―「ONODA」では、青年期と成年期で、小野田さんを演じる俳優が変わりますが、そこは最初から分かっていた?

 津田 そうですね。

 ―やりづらいとか、演じづらいということはなかった?

 津田 そこは、うーん、そうですね。何というのか、全く自分と同じ人物をやった(演じた)ところを見ずに演じるというのは…。

 ―まったく見てない?

 津田 ちょこっと撮ったラッシュを見たんですが、それにしてもやっぱりね、自分が本来経験したところを別な人がやって、その経験を実体験せずにやる(演じる)というのは、怖くはありましたね。うまくいくかなー、というのはありましたが、実際やったら、それ以上大変なこともいっぱいありましたし(笑)。そこにはあんまり、とらわれていなかったですかね。

 ―そこは、監督さんに委ねるしかないですよね?

 津田 そうですよね、編集なり何だのでバランスとってくれたり…。実際、出来上がりを見たら、それ、すごくうまくやっていただいたので。

 ―それ以上の大変なこととは?

 津田 やっぱりジャングルでの撮影であったりとか、あの言葉の問題ですよね。言葉がよく分からない。それは監督だけでなく、スタッフさんみんな、やっぱりフランス、ベルギーとか、あっち(欧州)系のスタッフさんばっかりなんで。あとカンボジアのスタッフとか、みなさん言葉が通じないから…。なんて言うのかな、いつも以上にコミュニケーションには気を遣いましたよね。

 ―日本人はキャストと通訳だけ?

 津田 それ以外、あと2人ぐらい若い方で日本人がいました。お世話係とか美術部で1人若い男の子が日本人でいました。

 ―あとは全部外国人ですか?

 津田 そうですね。基本、フランスとベルギーがメインですね。カンボジアの方もいましたけれど。

 ―フランス人監督の演出なのに日本の民謡「佐渡おけさ」とか、あと小野田さんを密林から誘い出すのに、鈴木青年がかける日本の曲であったり、物語の中で日本の曲の使い方がとても印象的でした。

 津田 そうですね。歌というんですかね。それがやっぱり(台詞の)言葉の端々にも、「俺と同じ歌を歌ってくれ」みたいな。この作戦を遂行することを「同じ歌を歌ってくれ」とか、「もうお前とは歌えない」とか、歌に例えること(場面)が多かったですよね。

 ―日本人監督じゃないのに、こんなふうに日本の歌や曲を使うのか、と私はすごく驚いていたのですが…。津田さん自身は何か感じるものはありましたか?

 津田 やっぱり、外国の方が独自のリサーチの中で、描こうとしているから、日本人としては「はっ」とするような演出があるんだな、という。もし、日本人だったら、リサーチする前から、基礎情報みたいなものを、成長する段階で、生活の中で、持っているわけですよね。そういうのが一切ないからこそ、すごく純度が高くなる表現の仕方もあるし、逆に違和感もあるような表現の仕方もあるのかな、と思いますね。