考古学の調査で山中に入り、道なき道を歩くと、思わぬ発見に出会うときがある。12年前に見つけた福井県越前町の番城谷山(ばんじょうだにやま)古墳群も、そのひとつである。

 越前町天王の八坂神社裏山にある7基からなる古墳群で、2010年以降、町教委により発掘調査がなされた。なかでも5号墳は円形の墳丘に、台形状の張り出しがつく墳長45メートルの古墳で、5世紀中頃に築造された。墳丘の斜面には川原石が敷き詰められ、周りには円筒形の埴輪(はにわ)が数多く立てられていた。葺石(ふきいし)と埴輪の両方をもつのは丹南唯一の事例となる。

 注目されるのは標高157メートルという高所に古墳が築かれた点だ。しかも、丹南盆地を一望できる絶景の場所にある。葺石の石は麓を流れる天王川の川原から大量に運んだもので、埴輪をもつことも踏まえると、古墳に埋葬された人物は丹南を治めた首長とみられる。

 それでは、なぜわざわざ高所に古墳を造ったのか。古墳の表面が石敷で、晴れた日であれば、おそらく光り輝いていたに違いない。かつて丹南の首長がいた地を誇示するには最適で、ある種のモニュメント的な役割を果たしていたのだろう。

 県内で高所の古墳といえば、九頭竜川が福井平野を出たところの丘陵上に造られた松岡古墳群と六呂瀬山古墳群である。標高は手繰ケ城山(てぐりがじょうやま)古墳が163メートル、六呂瀬山1、3号墳が179~196メートル。いずれも葺石・埴輪をもつ墳長100メートル規模の前方後円墳で、4世紀後半から5世紀初頭にかけて、嶺北を代表する大首長たちの墓である。

 全国の傾向をみると、山上に造られるのは3、4世紀のことで、5、6世紀は大阪の巨大古墳のように平地に多い。しかし、嶺北では平地の大首長墓は泰遠寺山古墳(5世紀中頃)だけで、松岡古墳群ではそれ以降、前よりも高所に造られていく。

 標高は石舟山古墳が256メートル、鳥越山古墳が264メートル、二本松山古墳が273メートルと、もの凄(すご)く高い。これら5世紀後半の古墳には、遺体を埋葬した石棺や周りに埴輪はあるが、あまりに高すぎるせいか、葺石はない。

 古墳とは大きさと規格性が重要で、日本列島の広い範囲に一斉に出現することを背景に、それをしるしとした政治体制が確立したと考えられている。これがヤマト政権の実態で、いうなれば、古墳は国家的な政治体制のもと権威や身分を演出する公的な舞台装置として整えられてきた。古墳時代とは埋葬に伴うまつりが人びとの心を大きく支配し、秩序づけられた社会ともいえる。

 こうした社会のなか、嶺北の大首長たちは墓の高さにこだわり、葺石という古墳の決まり事の一部を放棄した。これが死者の魂が山に帰るという信仰と関係するかはわからないが、その場所への造墓に大きな意味があったのだろう。

 九頭竜川は、かつて崩れ川といった。氾濫の度に川は蛇行し、網の目のように広がったことは、福井平野の航空写真や発掘調査の成果を見れば明らかだ。先の大首長たちが治水を重視したとすれば、福井平野が一望できるこの地を特別と考え、絶大な影響力をもった権力者が眠るにふさわしい聖地と認識していたのかもしれない。

 別の機会に取り上げるが、この一帯は継体天皇の母体となった地でもある。継体ゆかりの豪族といえば三尾(みお)氏である。ミオ・ミヲを「澪(みお)」(船の航行できる深い水路)、「水緒」(水の流れる筋)、「水脈」などと読み替えれば、九頭竜川を制し、福井平野を治めた豪族の名にふさわしいだろう。

 来週8日は「山の日」。泰澄和尚が開いた県内の山々に登るのもいいが、古代ロマンに思いをはせ、当時の様子を想像しながら高所に造られた古墳をめぐってみるのも一興だろう。(8月1日福井新聞掲載)

 【ほり・だいすけ】1973年福井県鯖江市生まれ。同志社大学文学部卒。同大学大学院博士課程後期退学。博士(文化史学)。元越前町織田文化歴史館館長補佐。2021年4月から佛教大学歴史学部教授。専門は考古学。著書に「地域政権の考古学的研究」「泰澄和尚と古代越知山・白山信仰」「古代敦賀の神々と国家」、共著に「神社の古代史」「古代豪族」など。