沖縄慰霊の日に国立沖縄戦没者墓苑で祈りをささげる若泉敬氏=1995年6月23日、沖縄県糸満市摩文仁

 1994年5月、若泉敬さんは著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で沖縄返還交渉の「密使」だったことを明かしました。交渉まっただ中の69年、私は東京の若泉さん宅に居候していましたが、全然知りませんでした。米国出張というような話は聞いていましたけど、この年11月の沖縄返還合意で密使的な役割を果たしているというのはひと言も言わなかったし、匂いすらさせなかったですね。学究肌というより行動型。大胆かつ細心の人でした。

⇒【連載】若泉敬氏と沖縄~谷内正太郎氏語る

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 「他策」のタイトルは、沖縄の本土復帰を優先するには、有事の際に核兵器の再持ち込みを認める密約を交わす以外に方法はなかった―との意味と受け止められています。私にはもう一つ、警世の書としての意味があるように思います。 ⇒【写真】著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」

 若泉さんは期待していたはずです。沖縄の本土復帰が実現すれば、日本は真の独立国家として独自の防衛・安全保障体制を構築し、核密約と沖縄の基地負担は解消に向かっていくと。

 ところが、日本は72年5月の沖縄本土復帰後も米国の抑止力に依存し、沖縄に過重な基地負担を押しつけたまま経済発展に浮かれているように映ったのです。「愚者の楽園」とよく嘆いていました。国民に警鐘を鳴らすには、この本を世に問う以外に方法はなかった―との決意が込められているように感じるのです。

 鎮魂の書でもあります。若泉さんは太平洋戦争で多大な犠牲を強いられた沖縄県民のことをずっと思っていました。基地の固定化が続き、良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれていました。晩年は病魔に侵されながら、ガマ(自然壕)で遺骨を収拾しました。「結果責任」を最期まで背負い続けたのです。

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 若泉さんは、ごく親しい人には著書「他策」の感想を尋ねています。でも私には聞きませんでした。おそらく分かっていたのでしょう。「墓場まで持って行く話です」と言われることを。聞かれない以上、自分からは言いませんでした。

 それは「他策」が、長い間自分の胸の中に秘め、国民の覚醒を待っていた若泉さんが命懸けで書いた本だったからです。

 私は2005年1月から3年間、外務事務次官を務めました。毎週1回の記者会見に備え、沖縄の核に関する極秘の合意議事録が省内に存在するかどうかチェックさせました。すると、そういうものは存在しないということだったのです。

 記者会見で問われた時、私は答えました。「関係部局に確認を求めたところ、そのような文書はなかった。だから存在しないと言わざるを得ない。一方で私は若泉さんのことをよく存じ上げている。決してうそをつく人ではない。だから『他策』で書いていることは本当だと思う。しかし、ないものはやっぱりないと言わざるを得ない」と。

 後に密約文書は、佐藤栄作元首相のご遺族が保管していたことが判明しました。

 【沖縄核密約】日米は沖縄施政権返還で合意した1969年11月の首脳会談で、核兵器撤去と日米安全保障条約の適用を意味する「核抜き・本土並み」を条件としたが、その際、有事に米軍が核を沖縄に再び持ち込むことを認めた秘密合意。佐藤栄作首相の「密使」として、キッシンジャー米大統領補佐官との交渉に当たった国際政治学者の若泉敬氏は94年出版の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で、日米が秘密合意議事録を作成し、首脳会談で佐藤首相とニクソン大統領が署名したと明かした。

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 福井県出身の国際政治学者、若泉敬氏が亡くなって7月27日で25年。親交のあった元外務事務次官で、初代の国家安全保障局長を務めた谷内正太郎氏(富士通フューチャースタディーズ・センター理事長)に話を聞いた。

 ◇谷内正太郎氏(やち・しょうたろう) 1944年、石川県金沢市生まれ。東京大学法学部卒。東京大学大学院修士課程修了後、外務省に入省。総合外交政策局長などを経て外務事務次官。第2次安倍晋三政権で国家安全保障局の初代局長を務めた。2020年4月から富士通フューチャースタディーズ・センター理事長。77歳。

 ◇若泉敬氏(わかいずみ・けい) 1930年、福井県旧今立郡服間村(現越前市)生まれ。東京大学法学部卒。京都産業大学教授などを歴任。80年に東京から福井県鯖江市に転居した。94年、著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で、沖縄返還交渉の「密使」として密約に関与したことを明かした。96年7月27日死去。享年66歳。