1996年6月23日の沖縄慰霊の日、国立沖縄戦没者墓苑を訪れた若泉敬氏。約1カ月後の7月27日、自ら命を絶った=沖縄県糸満市摩文仁

 若泉敬さんとの出会いは大学1年生の時でした。「土曜会」という読書会に参加したのがきっかけです。左翼的な学生運動が盛んだった当時には珍しく、保守中道の学生が集まるサークルでした。防衛庁防衛研修所(現防衛省防衛研究所)の教官だった若泉さんは、土曜会の先輩として私たちとよく議論しました。

⇒【連載】若泉敬氏と沖縄~谷内正太郎氏語る

 若泉さんと私は14歳差がありました。でも、私も仲間も「先生」とは呼びませんでした。そう言われるのを若泉さんは好まなかったのです。こんなことがありました。米国の学者に私のことを「親しい友人です」と紹介したのです。後輩や弟子と言ってもおかしくないのに。私はその時、若泉さんは自分より若くても共鳴し合う人を同志と捉えているのだと思いました。

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 国の行く末を案じる至誠の人でした。誠実かつストイック。私に言っていたのは「自分は学者であり、評論家であり、そして政治家である」。こう自己規定していました。「清濁併せのむ人間」とも。でも「濁」はなく高潔でした。生真面目でとても純粋でした。

 若泉さんが東京から鯖江市に隠遁した後も、「話をしたい」との電話がよくありました。これは私が鯖江市のご自宅で聞いた若泉さんの人柄と人生の歩みを象徴するエピソードです。

 太平洋戦争末期、福井師範学校に進んだ若泉さんは先生たちから「神国日本は絶対に勝つ」と教えられました。福井空襲で逃げ惑っても固く信じていました。敗戦後、先生たち一人一人に聞いて回ったそうです。「教えてくださったことと違います。なぜ負けたのですか」と。答えに窮した先生たちはその後、道で会っても逃げるように離れていったそうです。

 この体験をきっかけに先の戦争のようなことを繰り返してはならないと思い、東大法学部を卒業後に防衛・安全保障を研究する道に進みました。当時としては異例です。後に京都産業大が東京に設けた世界問題研究所の副所長、そして所長になりました。

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 私は大学院に進んだ後、1969年に外務省に入りました。若泉さんに入省試験に合格したことを報告した際、独身寮の選考から漏れたことを伝えると「うちに部屋があるから、そこを使いなさい」と言われました。それで海外研修に出るまでの1年間、東京のご自宅に居候させてもらいました。安月給の私を案じたのでしょう。下宿代は受け取らず、食事もただでした。

 合格を報告した際、強く口止めされたことがあります。「外務省では一切、私の名前や私との関係を口にしてはならない」と言うのです。「私は毀誉褒貶のある人間だ。外務省では私のことをよく言わない人の方がむしろ多い」と。それは非常に厳しい顔でした。

 後に分かるのですが、私が外務省に入った69年、若泉さんは佐藤栄作首相の「密使」として沖縄返還交渉に奔走していたのです。

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 福井県出身の国際政治学者、若泉敬氏が亡くなって7月27日で25年。親交のあった元外務事務次官で、初代の国家安全保障局長を務めた谷内正太郎氏(富士通フューチャースタディーズ・センター理事長)に話を聞いた。

 ◇谷内正太郎氏(やち・しょうたろう) 1944年、石川県金沢市生まれ。東京大学法学部卒。東京大学大学院修士課程修了後、外務省に入省。総合外交政策局長などを経て外務事務次官。第2次安倍晋三政権で国家安全保障局の初代局長を務めた。2020年4月から富士通フューチャースタディーズ・センター理事長。77歳。

 ◇若泉敬氏(わかいずみ・けい) 1930年、福井県旧今立郡服間村(現越前市)生まれ。東京大学法学部卒。京都産業大学教授などを歴任。80年に東京から福井県鯖江市に転居した。94年、著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で、沖縄返還交渉の「密使」として密約に関与したことを明かした。96年7月27日死去。享年66歳。