「実は大きなプロジェクトがあるのです」。東京・外苑前の建築家、隈研吾氏の事務所に招かれ、設計室長から聞かされた内容は「多量の手漉(てす)き和紙が必要になる。この需要に応えられるのは越前和紙ぐらいでしょうかね…」。そんな話から始まったのが新国立競技場の案件でした。通称「オリンピック競技場」プロジェクトです。概要も知らぬまま「もちろん大丈夫です」と即答してから、紆余(うよ)曲折、何度も現競技場敷地内の現場事務所に足を運ぶことになりました。

 長い長い歴史を持つ「和紙」ですので、世界のひのき舞台に登場するのは、もちろんこれが最初ではありません。

 古代より、日本は多くのことを中国から学ぼうと、遣隋使・遣唐使を派遣して、様々(さまざま)な知恵を大陸から得ようとしてきました。後に比叡山延暦寺を建立する最澄は中国の皇帝に謁見(えっけん)し、その折に日本からお土産として持参したのが雁皮(がんぴ)を原料とする和紙でした。中国から伝わった紙漉き技術を持ち前の探究心で昇華して、より繊細で優れた紙を生み出し、逆にお土産として仕上げるまでになっていたなんて、まさに技術立国日本の真骨頂ですね。

 戦国時代末期になると海外への興味が増すことになり、九州のキリシタン大名や仙台の伊達政宗は、欧州にまで使節団を派遣し、なんと彼らは見事にローマ法王に謁見まで果たしています。当時遠い日本からやってきた使節団は大人気で、各寄港地で盛大なもてなしを受けたそうです。その彼らは皆、西洋では見たこともない薄くて丈夫な不思議なものを持っていました。そう和紙です。彼らが鼻をかんで道に捨てていった和紙は、今もローマに大切に保管されているそうです。

 やがて徳川の世になって日本は長い戦国の時代を抜けて、安定した時代を迎えます。幕府は唯一長崎を世界に開きつつ、鎖国に入る訳ですが、この長崎から繋(つな)がる海の彼方(かなた)に、有名なアーティストがいました。「レンブラント・ファン・レイン」。現在もオランダを代表し世界を代表する画家は、世界中の紙をオランダ東インド会社を通して収集していました。

 その中で、特に雁皮の紙の光沢、緻密な表面、そして何よりそのインクの吸着力に注目しました。レンブラントは有名な絵画と同時に、数多くの銅版画を残しています。光と闇の魔術師と称賛される彼の作風の暗い闇を表現するのに、雁皮紙は最適な素材でした。初版の特別エディションは雁皮で刷られ、その後の汎用(はんよう)品には紙も変え圧力も上げて刷られたといわれています。雁皮は弱い圧力でも深く暗い闇を繊細に表現できたのです。余談ですが、このまさに和紙が取り持つご縁によりアムステルダムの中心市街にあるレンブラントミュージアムで「レンブラントと越前和紙展」(2015年)を開催したことも記憶に新しい出来事です。

 長い鎖国の時代から激動の明治維新へと突き進む中、文明開化の号令とともに、今まで閉ざされていた様々な日本の文化が広く知られることとなり、世界的な日本ブーム(ジャポニズム)が巻き起こります。世界各地で博覧会が催され、日本政府は国威を示すために、実に様々な品を出品する訳ですが、その中に越前和紙も出展されました。1900年のパリ万博で「金杯賞」を受賞し、光沢紙と呼ばれた三椏(みつまた)の和紙は、後のベルサイユ条約(19年)の調印用紙にも使用されました。その和紙を作成した信洋舎は、今もなお和紙の製造を続けています。

 そして今回のひのき舞台は、日本で2度目となるオリンピック開催。どのようなカタチにせよ、世界中が注目する平和の祭典、その中心となる歴史的モニュメントに福井県の手漉き職人がその技と魂を込めて漉き上げた越前和紙が、光を受けて日本ならではの暖かな空間を演出します。選手たちの活躍は勿論(もちろん)のこと、競技場の内装にも、ぜひ目を凝らしてお楽しみください。

 【すぎはら・よしなお】1962年福井県越前市(旧今立町)生まれ。成城大学経済学部卒。和紙問屋の老舗小津産業を経て、杉原半四郎が1871年創業の和紙屋、杉原商店入社。2010年同社社長。パリ国際展示会を皮切りに欧州での展示会に多数出品。16年に三井ゴールデン匠賞を受賞。