越前町織田文化歴史館の研究紀要第6集が3月末に刊行された。そこに掲載された古川登さんの論考が波紋を広げている。先月20日付の福井新聞学芸欄で紹介されたが、福井市朝宮町の丘陵上にある朝宮大社(おおやしろ)遺跡を越前国分寺とする新説だ。しかも、古代の北陸道が朝宮橋近くを通り、朝津駅が日野川の西岸にあったというのだから驚きである。

 国分寺は741年に聖武天皇の詔により、各国に国分尼寺とともに建立された。総国分寺の東大寺をはじめ全国69カ所あり、金堂・講堂・七重塔などを備えた巨大寺院である。全国で調査研究が行われているが、越前国の場所はいまだ確定せず、武生(越前市)が有力な候補地として知られている。

 一方、古代の官道は7世紀後半頃、都と地方を最短距離で結び、物流や軍隊の移動をスムーズに行うため、全国規模で整備された道路である。北陸には北陸道が走り、福井県立音楽堂の西付近を通っていたとされる。

 こうした通説に異論を唱えたのが古川さんで、同遺跡を北陸最大規模の古代寺院と評価し国分寺まで発展させて考えた説になる。興味深い内容だが、問題は国分寺かどうかである。

 一般的な寺院は平坦(たん)な地に整然とした建物群の伽藍(がらん)をイメージするが、古川説では山全体をひとつの伽藍ととらえた点に特徴がある。国分寺が山寺という事例はあるが、山全体に分散する平坦面と建物群のあり方が争点となっている。

 古川説では主要建物群が当初から同時に存在したとみるが、長い時間幅のなかでの展開とみる久保智康さんの指摘は重要である。一体か段階的なのか、現状からは判断しがたい。学術的な発掘調査がなされない限り、結論は出ないだろう。

 仮に朝宮大社遺跡が国分寺だとすると、生じる問題は大きい。それは国分寺の近くに必ず国府が存在するので、武生では遠すぎてしまうからだ。国府はその国の中枢であり、地方にある京といえるので、豪華な品々が出土する。武生市街地では遺物包含層が薄く、遺物の内容・構成からも国府ではないというのが古川さんの主張である。

 10世紀の記録では丹生郡に国府があるが、正確な場所までは分からない。国府は移転する場合があり、ずっと武生なのかも断言できない。古川説が正しければ、古代の丹生郡北部のどこかに眠っていることになる。

 全国の国分寺の事例をみると、交通に便利で国府に接続しやすく、国家の威信を示す点から官道に近い場所に建立されることが多い。日野川は越前国の河川交通の要なので、北陸道との交差点に駅家(うまや)と国分寺を置くのは、国家主導の一体的な選地・設計を意識した観点でいえば合理的かもしれない。

 しかし、古川説では理解しにくい点がある。朝宮大社遺跡が存在したはずの時期に、このあたりを描いた東大寺領道守荘絵図(766年)に出てこない点だ。絵図は河川・集落・道・山・川、樹木・草木・岩石まで丹念に描かれ、山や川の名前も表示し、自然環境や地理的状況に強い関心が寄せられている。

 採集された土器の年代を8世紀末まで下げて考え、国分寺もその頃に建ったとすると、絵図が描かれた時点では、まだ国分寺はなかったことになり、矛盾はない。しかし、古川説のように藤原仲麻呂の乱(764年)を契機に国府が移転し国分寺が建ったとすると、日野川を挟んで隣の足羽郡の荘園絵図とはいえ、国分寺や荘園内を通過したであろう北陸道、古川さんが遺跡近くの日野川に架かっていたとみる朝津橋が描かれていないのが不思議だ。

 いずれにせよ、古川さんの説は福井の古代史研究に一石を投じた。貴重な問題提起として今後の研究進展に期待したい。

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 【ほり・だいすけ】1973年鯖江市生まれ。同志社大文学部卒。同大大学院博士課程後期退学。博士(文化史学)。元越前町織田文化歴史館館長補佐。今年4月から佛教大歴史学部教授。専門は考古学。著書に「地域政権の考古学的研究」「泰澄和尚と古代越知山・白山信仰」「古代敦賀の神々と国家」、共著に「神社の古代史」「古代豪族」など。