CHANEL 2015-16 AW(PHOTO: Aya Takeshima)

 三寒四温とはよく云ったもので、こうも寒さが緩むと時候は違うけれど、酒なくて何の己が桜かなと、急に冷酒でも一杯傾けたくなる。今日は、カール・ラガーフェルドの命日(2019年2月19日逝去。享年85歳)である。

 例年ならこの時期は、秋冬シーズンのパリコレクション取材の準備を始めているが、昨年10月に次いで今回も出張せず、自宅に居ながらにして、各ブランドよりデジタル配信される動画等を取材することになる。希望なき安心の遅鈍なる生活もいつしか一年が経ってしまった。如何なる状況下にあろうとクリエーティブなものは面白い筈なのだが、溺れる者が藁にでも縋り付くような気持ちで懸命に考えをそちらへ集中しようとするのだが、頼りない思考力は、古い糸屑のようにプツプツと切れ、一つことを考え続けることなど到底出来るものではない。弱音の一つも吐きたくなるさ。無頼の徒を気取る自惚れなどは、雪達磨に熱湯を掛けたようにペチャンコになってしまい、日頃ご自慢の散文を竜頭蛇尾の形に歪めておいて筆を投げた、と云うようなことになれば、それこそ惨めと云うもの。身近の読者であるS君やT君に対しても申し開きが立たぬ。ファッションを書くと云う命題を掲げ、単なる印象記や懐古趣味に終わることなく、僅かばかりだが、そこに史的展望とか時代観察とかを重ねられたらと、我ながら不遜な思惑を懐に仕舞いながら書いてきたこの連載も今回が最終回。端より勢いがあったかどうかは扨措くとしても、せめて人選だけでも点睛を意識して有終の美としたいと心組む、根っからのスタイリスト的な自惚れもあって、今回はカール・ラガーフェルドについて書いてみた。が、書き上がったものを一読して、予定調和な内容に我ながらげっそりして、〆切まで間があったのでそのまま放置しておいた。このまま編集部に提出してもと思ったけれど、今日、書き直してみたくなった。今し方、在所の川に舞い降りた野鴨のつがいを眺めていたら気が変わった。餌を求め、川幅が狭い急流に向かう野鴨の姿をジッと眺めていたら、どうでも書き直したくなった。野鴨の、私などには想像すら出来ぬ果敢さに強く引き寄せられた。バカな話だと笑われようが、直感的なひらめきを私は何よりも大切にする質なのだ。

 野鴨を枕にしてなんだが、ラガーフェルドは正真正銘の天才肌のデザイナーである。全盛期には(常にそうだったけれど)、「シャネル」や「フェンディ」に加え、「クロエ」と自分のブランド「カール・ラガーフェルド」(セカンドラインも含む)のデザインを手掛けていた。「シャネル」はオートクチュールとプレタポルテ、「フェンディ」と自身のブランドは男女あったから、一体、年に幾つのコレクションを手掛けていたのだろう。卓越した美意識の高さと自己顕示欲の強さを武器にしたモードマスターとしての彼の凄みは、余人には真似の出来ない仕事量と質の高さで計ることが出来よう。「私は決して過去を振り返りはしない。生まれつき前を見る気質に出来ているのだ」と彼は話してくれたことがある。「トレンドセッター」なる言葉は、「トレンド」と同じく古臭い感じが漂うが、ラガーフェルドこそ、トレンドセッターであると、1990年代は誰もが信じて疑わなかった。自分の名前を冠したブランド然り、殊更、シーズン毎に見せる「シャネル」のプレタポルテに於ける、時代を切り拓く彼の腕前に、パリに集まるファッション関係者は敏感だったと思う。

 随分と昔のことだが、来日したラガーフェルドに話を聞いたことがある。貴重な経験だった。日本市場に於ける「カール・ラガーフェルド」のライセンシー各社が一堂に集まったパーティー会場に記者として潜入したのだ。報道関係者は私一人だった。勿論、主催者より許諾を得た上でのことだが、飽く迄も飲食を伴った会合の場だから、取材は立ち話レベルに留めること、(ライセンス会なのだから)「シャネル」についての話題は避けることを条件に会場に潜り込んだ。ラガーフェルドの取材は到底パリでは実現不可能と聞いていたから、この好機を存分に活かそうとしたのだ。前以て通訳の方には、彼の回答はその場で逐一訳さずに後で纏めて聞かせて欲しいと無理難題を云い渡しておいた。それだけ時間が惜しかったのである。その時聞いた彼の言葉には、今にして思えばスッと腑に落ちる含蓄があった。

 例えばこうだ。「スピード感のある生活こそ私の信条。速度の中で、速度に追われ、自分の意志で行動することこそ、現代人に与えられた一つの特権だよ」と彼は云うのだった。無為な時間は一切持たず、精力的に身体を、頭脳をフル回転させる、まさにエネルギーの塊との喩えがピタリと当て嵌まる。エネルギーそのものである。だからこそ、彼の提言は時代の先を行き、見る者の眼と心を釘付けにしたのである。さしずめ彼ならば、パンデミックを憂う時代に対する画期的なメッセージを発信してくれたに違いない。新型コロナウイルスが我々より奪ったものは多いが、それによって与えられた(気付かされた)ものも少なくない。時節柄仕方がないけれど、脱・猛烈型の生き方に無為に慣らされつつある風潮を半信半疑の面持ちで傍観する私などには、往時のラガーフェルドの言葉は、頼もしい喝のように響くのだが、如何だろうか。

 デザイナーと云われる本人が、如何に質の高い、センスの良い自身の分身を持ち得るか。つまりは、クリエーションのシステム化を円滑に構築出来るかどうか。オートクチュールとプレタポルテの両部門を持つ「シャネル」と云う確立されたメゾンは、ラガーフェルドにとって理想的な仕事場だったに違いない。1980年代初頭より「シャネル」のアーチスティック・ディレクターを務めた彼は、年に2回、春夏と秋冬のオートクチュールとプレタポルテをデザインしてきた。デザイナー独りの力量が賄える質と量は自ずと決まってくる。してみると、デザイナーが、自身をアーチスティック・ディレクターの立ち位置に据えてクリエーションをシステム化することは、まさに彼の理想だった。彼の流儀はたちまち他のラグジュアリーブランドに影響を与えた。以降、クリエーティブ・ディレクターとかアーチスティック・ディレクターと云う役職が「デザイナー」に取って代わり花形になったことでも明らかであろう。

 前述したが、殊に1990年代のパリでは、「シャネル」のショーを見るだけで次シーズンのトレンドが分かると迄で云われた。だが実際はどうだろうか。ラガーフェルドは意図して時代のトレンドを量産していたとは私には思えない。何故なら、彼の究極の巧みさは、時代の表層としてのモードを、軽妙かつ品性を備えたスタイルに置き換えて見せる、その手法にあったからだ。これ迄に取材した「シャネル」のショーの中で、私が尤も衝撃を受けたのは、米国のヒップホップカルチャーを彷彿させたコレクション(1991〜92年秋冬プレタポルテ)だった。生真面目な女帝(創業者のガブリエル・シャネル)であれば近寄らなかったに違いない題材を、ケレンを承知で創作の俎上に横たえたラガーフェルドは、「シャネル」のスタイルを機知で解し、瞬時にモードを揺すぶったのである。あの時のショーの、ラジカルな変わり様は、さすがなパリでも甲論乙駁を招いたが、寧ろ私などは、突き刺す程の審美眼を備えたファッションの守護神の面目躍如たるものを感じて痛く興奮した記憶がある。ラガーフェルドは、「シャネルスーツ」を生き長らえさせることよりも、生き生きとさせることに軸足を置いたのである。彼は、一目で「シャネル」と分かる題材(例えば、ツイードジャケットとかバイカラーシューズとか鎖やカメリア使いなど、ガブリエル・シャネルが創出した様々なスタイル)を縦横無尽に再解釈した。あの、簡素なロゴマーク。模倣など出来ない、隙のない完結した署名。交叉する「C」マークは、絶対的なシックのメタファーであり、「シャネル」の持つあらゆるグラマラスの象徴。創業者が確立したスタイルを、ラガーフェルドは伝統と革新をモットーに、時代毎に微妙に変化する「今」の周波数に同調させるべく、創作の精巧なダイヤルを巧みに刻み、スタイルを絶妙に進化させたのである。マドモアゼル(ガブリエル・シャネル)のシャネル神話然り、ラガーフェルド神話もいいのだけれど、まさに本人も少なからず意図していて、結局は数多の逸話や語録がまさに神話レベルになっているからしょうがないのだけれど、ラガーフェルドの真髄とは要するに彼が提示してきたメッセージなのであって、とりわけ彼の場合には、現代の服飾史の或る一座標に置かれると云う空間的安定を呈しているのではなく、「シャネル」に於ける彼の創作は未来に繋がる時間として生き続けていると云うことを忘れるべきではない、と思うのである。追記しておくと、今回の写真は、「アヤーム」のデザイナー、竹島 綾より拝借したものだ。奇しくも、彼女はこの連載の第1話にて紹介したデザイナーである。竹島は大学卒業後、一旦就職するものの、デザイナーを目指し、英国のセントラル・セントマーチンズ美術大学に進学。在学中に、パリのメゾン ルマリエ(シャネル傘下のオートクチュール工房。創業1880年)にて「シャネル」のショーで使用される服地サンプルの刺繍を製作した貴重な一年を自らの糧に現在も頑張っている。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)