2月13日夜、福島、宮城両県で震度6強を観測した地震では、私の住む東京の多摩地区も大きく長く揺れて、玄関のドアをしばし開け、揺れが静まるのを待っていました。「東日本大震災」の余震とのこと。しばらくして震源に近い福島県の知り合いにメールをしたりしましたが、書棚や食器棚が倒れてたいへんだが、無事との返信をもらいました。

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 「東日本大震災」(2011年3月11日)と、それに伴う東京電力福島第一原子力発電所での事故が起きてから10年です。

 今月の「村上春樹を読む」では<地震と村上春樹作品>ということを考えたいのですが、その前に、少し記しておきたいことがあります。

 2011年は「東日本大震災」と原発事故が起きる前から、当時、大学のサバティカル中で、アメリカにいた加藤典洋さんと新しい企画を始める打ち合わせのために、頻繁にメールのやりとりをしていました。その間に、同大震災と原発事故が起きたので、このことからの連載スタートを私は提案しました。もちろん加藤典洋さんも同じ考えでした。

 原発事故で放射性物質が拡散して、報道陣たちもいったん全員が避難しましたが、加藤典洋さんが同原発に近い南相馬市に住む知人を訪ねたいと希望して、同4月7日に加藤さんと2人で南相馬市に入ったのです。勤務先の共同通信社の記者としては、記者退避後、最も早い段階でした。

 そこで見た悲惨な風景は忘れることができません。「第二宝栄丸」という船が海岸線からかなり離れた畑に打ち上げられ、さらに大きな船が道路脇に横倒しになっています。送電線の鉄塔が、恐竜か、巨大な怪物によって、ハリガネ細工のようにグシャッと押し潰されているかのようでした。30人以上が亡くなった老人保健施設……。原発方向に通じる道には「通行止」「立入禁止」のガードが並んでいました。ちょうど警察の大型車両が、何台も縦に並んで、その「立入禁止」の地区に入っていくところでした。

 そんな風景を見て、加藤典洋さんの新連載とは別に、文学担当記者として、このままではいけない、何かをしなくてはならない、自分は何ができるだろう……。そう考えて、震災2カ月後の5月11日から「大変を生きる――日本の災害と文学」という毎週1回、計50回の連載を始めたのです。(この連載は作品社から同名の書籍にまとまっています)

 その「大変を生きる――日本の災害と文学」の連載原稿の第1回を書いている頃、文化部で親しかったK君が、ウェブ記事の担当となったので、「何か書きたいことはないか」と私に言ってきました。

 「村上春樹のことなら書いてみたいことがある」と、私が応えて、同6月から始めた連載コラムが、この「村上春樹を読む」です。

 「東日本大震災」から10年となり、「村上春樹を読む」のことを考えると、共同通信の社内もまだ騒然としたものがある中、同コラムを書き始めたことを思い出します。

 1年ぐらいは書くつもりでしたが、10年間、毎月書き続けるとは、まったく考えてもいませんでした。そして連載も100回を遥かに超え、10年を迎えましたので、次回でひとまず完結としたいと、いま考えています。10年続いた連載の最後に、今回と次回で<地震と村上春樹作品>について考えてみたいと思います。

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 村上春樹作品にはたくさんの「地震」のことが出てきますが、「東日本大震災」のことがはっきりと出てくるのは『騎士団長殺し』(2017年)です。

 これは、36歳の肖像画家の「私」が、いったん妻と別れて、また妻との生活を取り戻すまでの物語です。そして、この長編を「地震」の観点から読んでいくと、重要な場所の多くが「地震」と繋がる形で描かれています。

 「東日本大震災」の関連では『騎士団長殺し』の最後、「私が妻のもとに戻り、再び生活を共にするようになってから数年後、三月十一日に東日本一帯に大きな地震が起こった。私はテレビの前に座り、岩手県から宮城県にかけての海岸沿いの町が次々に壊滅していく様子を目にしていた」とあります。

 逆に物語の冒頭部には、いったん妻と別れた「私」が、自動車で新潟、北海道、東北を巡る旅が描かれていますが、その後に被災地となる岩手県との県境に近い宮城県の海岸沿いの小さな町で、たまたま出会った若い女に誘われて、ラブホテルに行った体験が『騎士団長殺し』の中で重要な役割を担っています。

 その「海岸沿いの小さな町」も「巨大な怪物のような津波によってなぎ倒され、ほとんどばらばらに解体されて」しまったのです。

 『騎士団長殺し』は「私」が、冒頭、車で各地を移動した後、友人の父親で著名な日本画家・雨田具彦が使っていた小田原郊外の家に住み、そこが作品の主要な舞台となって展開していくのですが、物語の最後には「東北の地震の二ケ月後に、私がかつて住んでいた小田原の家が火事で焼け落ちた」と記されているのです。

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 さらに同作では、「東日本大震災」ばかりでなく、「関東大震災」のことも何度か記されていています。

 小田原の家の雑木林の石塚の地下を掘りかえして、そこに石室が発見され、中から昔の仏具のような、古代の楽器のような木製の柄がついた鈴が発見されます。即身仏となった人が、その石室の中で鈴を鳴らしながら入定(入滅)したようですが、即身仏(ミイラ)の方は発見されません。

 この深さ2メートル80センチ、直径1メートル80センチの円形の穴も『騎士団長殺し』の重要な場所です。近くに住む謎の資産家・免色渉(めんしきわたる)が知り合いの造園業者に頼んで、崩れた塚のように雑然と集積されていた石をとり除き、この穴を発掘するのですが、免色渉の推測によると「あるとき大きな地震があり、塚は崩れてただの石の山になってしまった。小田原近辺は場所によっては、一九二三年の関東大震災でかなりひどくやられましたから、あるいはそのときのことかもしれません」とのことです。

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 また、同作には身長60センチぐらいの「騎士団長」が登場しますが、免色渉の家に潜む「まりえ」という13歳の少女に対して、この「騎士団長」が免色渉家のメイド用の部屋に身を隠すようにとアドバイスしています。

 その免色渉家のメイド用の「部屋には洗面所もついておるし、冷蔵庫もある。地震に備えてミネラル・ウオーターと食品が貯蔵庫に十分ストックされている。だから飢えることもあらない。諸君はここで比較的安心して日にちを送ることができる」と言うのです。

 「あらない」は「騎士団長」が得意な言葉遣いです。「騎士団長」には二人称単数の呼びかけ語はなく、いつも相手に「諸君」と語っています。

 そして「まりえ」が実際、貯蔵庫の中身を点検してみると「そこには騎士団長の言ったとおり、地震に備えた非常食がたっぷり蓄えられて」いました。

 でも、その「まりえ」は「小田原のこの山間部は地盤が比較的しっかりしているので、地震の被害はそれほど多くないはずだ。一九二三年の関東大震災のときにも小田原市内は大きな被害を受けたものの、このあたりの被害は比較的軽微なものにとどまった」と考えています。「彼女は小学校のときに夏休みの研究課題として、関東大震災のときの小田原近辺の被害状況を調査したことがあった」からです。おそらく、これは村上春樹がどこかで、小田原の地盤と「関東大震災」の関係を知って記しているのでしょう。

 そのように『騎士団長殺し』の重要な場所の多くが「東日本大震災」や「関東大震災」と関係するように描かれているのです。

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 こんな具合に「東日本大震災」のことを反映した『騎士団長殺し』だから「関東大震災」のことも出てくるのだろう……。そう考えがちかもしれませんが、でも村上春樹の「地震」への関心は、かなり以前の作品まで遡ることができます。

 例えば『ノルウェイの森』(1987年)に、こんな場面があります。

 主人公の「僕」が大学の同級生である「緑」という女性の父親が入院する病院へ、一緒に行く場面です。「緑」の父親は脳腫瘍で死にそうになっているのですが、「緑」が病室を離れている間に、おいしい「キウリの海苔巻き」を作って「緑」の父親に「僕」が食べさせてあげます。

 その時、「緑」の父親が意識混濁の中<キップ><ミドリ><タノム><ウエノ>と「僕」に言います。その言葉を「切符・緑・頼む・上野駅」と「僕」は受けとり、病院に戻ってきた「緑」にこれを伝えます。

 それに対して「緑」は自分の家出体験と関係しているのではないかと「僕」に話すのです。「緑」は小学校3年の時と5年の時に、家出をして、上野から電車に乗り、福島の伯母の家に行ったのだそうです。

 そうすると父親が福島まで来て、連れて帰ります。「二人で電車に乗ってお弁当を食べながら上野まで帰る」時に「お父さんはすごくボツボツとだけれど、私にいろんなこと話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたことないような話」をしたそうです。

 それによると、「緑」の父親は「関東大震災」の時、東京のどまん中にいたのに地震のあったことすら気がつきませんでした。「関東大震災」の際「お父さんはそのとき自転車にリヤカーつけて小石川のあたり走ってたんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰ったらそのへんの瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて『何やってるんだ、いったい?』って訊いたんだって。それがお父さんの関東大震災の思い出話」だそうです。

 『ノルウェイの森』は1987年の作品なのですが、「緑」の家出と「関東大震災」との関係は福島と上野を往復する話なので「東日本大震災」後に読むとさらに印象的です。そして、福島から上野まで戻る時、最後に父親はいつもこう言うのだそうです。「どこいったって同じだぞ、ミドリって」。

 これも謎のような言葉ですが、たいへん印象的ですね。「地震」は日本中どこでも起きるので「どこいったって同じだぞ、ミドリって」という意味にも受け取れますし、家出しても「どこいったって同じだぞ、ミドリって」という意味にも受け取れます。しかしそれだけでもない言葉として、不思議な印象を残しています。

 ともかく、かなり前から村上春樹が「関東大震災」に、いや「地震」に、ある思いを抱いていたことは確かだと言えます。

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 そして「東日本大震災」後に、最初に書かれた長編である『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)にも「東日本大震災」に関連した部分と思われる描写が出てきます。

 同作は5人の名古屋の高校の親友同士の物語ですが、「多崎つくる」だけが東京の大学に進学。そして彼が19歳から20歳になる頃、ある日突然、「多崎つくる」が他の4人から、理由もわからないまま絶交されてしまいます。「多崎つくる」が深い傷を心に受けて、死の近くまで行く場面はこうあります。

 死の淵で、自分の体を鏡で見詰めるのですが「彼は鏡に映った自分の裸身を、いつまでも飽きることなく凝視していた。巨大な地震か、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離せなくなってしまった人のように」と描かれているのです。

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 でも<地震と村上春樹作品>といえば、やはり1995年1月17日に起きた「阪神大震災」かと思います。村上春樹が育った土地を襲った、この大震災そのものをテーマにした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)が書かれていますし、その後の作品にも「阪神大震災」のことは出てきます。

 例えば、昨夏刊行された連作短編集『一人称単数』の「ヤクルト・スワローズ詩集」という作品にも「阪神大震災」が顔を覗かせています。

 「ヤクルト・スワローズ詩集」の中で「僕」が甲子園球場の外野席で阪神・ヤクルト戦を観戦した時のことが書かれています。「用事があって一人で神戸を訪れていたとき、午後がそっくり暇になった。そして阪神三宮駅のホームに貼ってあったポスターで、たまたまその日に甲子園球場でデーゲームがあることを知り、『そうだ、久しぶりに甲子園に行ってみよう』と思いついた」とあるのですが、これは『辺境・近境』(1998年)の最後の「神戸まで歩く」というエッセイに書かれた日のことではないかと思います。

 同エッセイは「阪神大震災」後の1997年5月「1人で西宮から神戸まで歩いた」体験を書いたものです。街には「地震罹災者ための仮設住宅がまだ建ち並んで」いますし、阪神芦屋駅のポスターで、その日の2時から「阪神・ヤクルト」のデーゲームが甲子園球場であることを知って見にいったことが記されています。試合を知った駅名が異なりますが、「阪神大震災」の後に神戸まで歩いた、この日のことが反映されているのではないでしょうか。

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 「阪神大震災」をめぐる連作『神の子どもたちはみな踊る』については、このコラムの中でも繰り返し考えてきたので、詳しくは触れませんが、一つだけ記したいと思います。

 『神の子どもたちはみな踊る』の最後に書下ろしの形で置かれた「蜂蜜パイ」に「神戸の地震のニュースを見すぎた」ためか、夜中に目を覚ますようになった「沙羅」という4歳の女の子が出てきます。そして『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、親友たちから絶交されて16年後、36歳になった「多崎つくる」に対して、「そろそろ乗り越えてもいい時期に来ているんじゃないかしら」と、そのつらい体験を乗り越えるための巡礼の旅を促す、2歳年上の恋人にも同名の「沙羅」と名づけられているのです。

 「阪神大震災」と「東日本大震災」という「地震」が人びとにもたらした過酷な心の傷を乗り越えていく力がこの2人の名づけを結んでいると考えることができるかもしれません。

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 そして、ここで考えてみたいのは、短編「めくらやなぎと眠る女」と、それを短くした「めくらやなぎと、眠る女」についてです。

 村上春樹は「阪神大震災」が起きた時、アメリカにいました。村上春樹は4年半にもわたるアメリカ生活に区切りをつけて帰国。自らが育った神戸と芦屋で「阪神大震災」のチャリティーとして、自作の朗読会を開いたのです。

 「めくらやなぎと、眠る女」には<めくらやなぎのためのイントロダクション>というものが付いています。この文章は「めくらやなぎと眠る女」から「めくらやなぎと、眠る女」が生まれたという事情がよくわかるので、まずそれを紹介してみましょう。

 それによると、この「めくらやなぎと、眠る女」は1983年12月号の「文學界」に掲載した「めくらやなぎと眠る女」を、ほぼ10年ぶりに手を入れたものです。約80枚ばかりあったが「もう少し短く縮めたいと以前から考えていたのですが、九五年の夏にたまたま神戸と芦屋で朗読会を催す機会があり、そのときにどうしてもこの作品を読みたいと思ったので(この作品はその地域を念頭に置いて書かれたものだからです)、大きく改訂してみることにしました」とあります。

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 オリジナル「めくらやなぎと眠る女」と区別するために、便宜的に「めくらやなぎと、眠る女」という題に変え、原稿量は約4割減らして、45枚ほどにダイエットしたことを村上春樹は記しています。

 「内容も部分的に変わってきており、オリジナルとは少し違った流れと意味あいを持つ作品になったので、違う版として、あるいは違ったかたちの作品として、この短編集に収録することにしました」とあるのです。その短い版である「めくらやなぎと、眠る女」は短編集『レキシントンの幽霊』(1996年)に収められています。

 そして、さらに<めくらやなぎのためのイントロダクション>には、こんなことも記されています。

 「この作品は同じ短編集に収められた「螢」という短編と対になったもので、あとになって『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統のもので、「螢」の場合とは違って、この「めくらやなぎと眠る女」と『ノルウェイの森』のあいだにはストーリー上の直接的な関連性はありません」

 その短編「螢」と同じ短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』に入っているのが長い版の「めくらやなぎと眠る女」です。

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 こうやって、自分が育った土地である「阪神大震災」の被災地での朗読会のために短い版「めくらやなぎと、眠る女」が生まれたわけですが、このような朗読会を村上春樹が日本で行うことはなかったので、大きな話題となりました。それだけ、自分が育った土地を襲った震災の被災者たちを励ましたいと思ったのでしょう。

 その朗読会の様子を伝える共同通信の報道によると(私は、この朗読会を取材していません)、1日目の会場の神戸・兵庫県民会館のホールは、若者を中心に満席で、村上春樹は「本を読んでも役に立つわけではないですが、ささやかでも何かできればと思った」と切り出して、短編集『夜のくもざる』から関西弁を交えて数編を朗読。そして、新たに書き直したという小説『めくらやなぎと眠る女』を朗読したとあります。

 『夜のくもざる』の中の「ことわざ」という作品が関西弁の超短篇小説なので、それを朗読したのかもしれません。

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 朗読会後のサイン会では握手を求めるファンの長い列ができたそうですし、両日の入場料全額と村上春樹自身の寄付が地元の図書館に贈られたそうです。

 2日間、両方の朗読会に参加した川上未映子さん(まだ19歳で書店員だった)の話が『みみずくは黄昏(たそがれ)に飛びたつ 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』(2017年)の冒頭にありますが、2日目の朗読会(芦屋大学)では、村上春樹が「昨日は、朗読が長過ぎたので、ダイエットしてきました」と言って、短い版を読んだそうです。

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 80枚のものを一晩で一気に4割カットしたのか……、それとも書き直して、短くしたものをさらに短くしたということかもしれません。また現在、我々が読める版とその朗読版が同じものだったのか、これも不明です。

 村上春樹は、それまで関西弁で小説を書く作家ではほとんどありませんでしたが、関西弁を交えて朗読したということには、被災を受けた自分が育った土地の言葉を使って、朗読したいという気持ちもあったのではないかと思います。

 そして「めくらやなぎと、眠る女」を朗読したのは、村上春樹も記しているように、自分が育った神戸を舞台にした小説だからです。そのストーリーを簡単に紹介してみましょう。

 久しぶりに帰郷した「僕」がある年の5月、右の耳が悪い「いとこ」が病院へ行くのに付き添っていきます。「僕」は25歳。「いとこ」は11歳下の14歳です。その病院へのバスの往路でのことや「いとこ」の診療を待つ間、かつて友だちと一緒に病院入院中の友だちのガールフレンドを見舞うためにチョコレートを持って行った8月の夏の日のことを思い出す話です。

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 改稿では、短く削られただけでなく、長い版の途中にあったものが、物語の最後に移動して、新たに書き加えられた部分などもあります。その最終部分はこうです。

 「僕はそのとき、あの夏の午後にお見舞いに持っていったチョコレートの箱のことを考えていた。彼女が嬉しそうに箱のふたを開けたとき、その一ダースの小さなチョコレートは見る影もなく溶けて、しきりの紙や箱のふたにべっとりとくっついてしまっていた」

 「僕」と友だちは病院に行く途中、海岸にバイクを停め、そして二人で砂浜に寝ころんでいろんな話をしていたのです。

 それを思い出した「僕」はベンチから立ち上がろうとしても「うまく立ち上がれなかった。まるで強い流れの真ん中にいるみたいに、手足を思い通りに動かすことができなかった」と記されています。

 そして、さらにこんなことを思うのです。

 「僕らはチョコレートの箱を、激しい八月の日差しの下に出しっぱなしにしていた。そしてその菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ」

 この後、続いて「いとこが僕の右腕を強い力でつかん」で「大丈夫?」と尋ねると、「僕」が意識を現実に戻し、ベンチから立ちあがります。そして「僕」はいとこの肩に手を置いて、「大丈夫だよ」と言って、物語が終わっています。

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 加藤典洋さんと「東日本大震災」と原発事故の際、2人で南相馬市に入ったことから今回の「村上春樹を読む」を書き出したので、加藤典洋さんのこの場面への読みの一つをまず紹介してみましょう。

 加藤典洋さんは「いとこ」の付き添いで病院に行った「僕」が11歳も年下の「いとこ」によって、腕をつかまれて「大丈夫?」と支えられていることに注目しています。

 「阪神大震災」後、最初に発表された長編は『スプートニクの恋人』(一九九九年)ですが、その主人公である小学校の教師の「ぼく」が「にんじん」と呼ばれる教え子の少年に支えられて、この世に繋ぎとめられることで、作品が成功しています。

 「ここからやがて父と息子という縦の時間軸に沿った人間関係が村上の小説世界に入り込んでくるのを、われわれは見ます」(『村上春樹の短編を英語で読む 1979〜2011』 2011年)と加藤典洋さんは書いて、連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』、「父殺し」の物語である『海辺のカフカ』、「父」の主題を色濃くにじませる『lQ84』まで展開していく関係を指摘しています。このことは大切な指摘だと思います。

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 「阪神大震災」の被災地も私は取材していますが、ここでは「めくらやなぎと、眠る女」から、受け取ったことについて書きたいと思います。

 まず、「見る影もなく溶けて、しきりの紙や箱のふたにべっとりとくっついてしまっていた」1ダースの小さなチョコレートのことです。

 村上春樹が<めくらやなぎのためのイントロダクション>で書いているように「この作品は同じ短編集に収められた「螢」という短編と対になったもので、あとになって『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統」なのですが、その言葉通り、『ノルウェイの森』にも「チョコレート」の場面が出てきます。

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 これは『ノルウェイの森』の「僕」が京都の森の中にある療養所にいる「直子」を訪ねていく場面です。「直子」は「僕」の親友「キズキ」の恋人でした。かつて「キズキ」と「僕」とで、入院した「直子」を見舞いに行ったことがあるのです。「直子」に「僕」がこう話しかけます。

 「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる? 海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」と。

 それに応えて「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言います。

 「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐしゃぐしゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」

 「そうだね。その時、君はたしか長い詩を書いてたな」

 「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」と直子はくすくす笑うのです。

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 『ノルウェイの森』では「キズキ」は自殺していますし、「直子」も療養所の森の中で、縊死してしまいます。

 「めくらやなぎと眠る女」でも「僕」の友だちは、その後、死んでいますが、入院している「彼女」のその後の生死は不明です。

 でも短い版の「めくらやなぎと、眠る女」は『ノルウェイの森』の後の改稿なので、「めくらやなぎと、眠る女」の詩を書く「彼女」がどうしても「直子」と重なってきて、その後の死の感覚が強く迫ってくるのです。

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 「めくらやなぎと、眠る女」の最後、「いとこ」に「大丈夫?」と尋ねられて、「大丈夫だよ」と「僕」が立ち上がるまでに、こんな文章が記されています。

 「今度はうまく立ち上がることができた。吹き過ぎてゆく五月の懐かしい風を、もう一度肌に感じることができた。僕はそれからほんの何秒かのあいだ、薄暗い奇妙な場所に立っていた。目に見えるものが存在せず、目に見えないものが存在する場所に」

 この「薄暗い奇妙な場所に立っていた。目に見えるものが存在せず、目に見えないものが存在する場所」こそが、親しい者の死に近い世界に触れて、自分が大切にするべき「心」の姿にハッと気がついた時なのでしょう。

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 『ノルウェイの森』の「直子」が書いていた詩は、短編「めくらやなぎと、眠る女」の彼女が書いていた詩と同じものかもしれませんが、それは「めくらやなぎ」が茂る丘の上にある小さな家に一人眠る女を書いたものです。その「めくらやなぎ」が女を眠りこませるのです。

 「僕らはチョコレートの箱を、激しい八月の日差しの下に出しっばなしにしていた。そしてその菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ」

 その「僕」たちは、チョコレートを溶かさないように、心をくばるべき、何かを感じなくてはならないはずだったのに、誰も何もしませんでした。

 「でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるまま置きざりにしてしまったのだ」と村上春樹は書き加えています。

 これが朗読を通して、村上春樹が伝えたいことだったのではないかと思います。

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 「地震」の発生を私たちは防ぐことはできません。でも世界を災害からまもるためには、チョコレートの箱を8月の太陽の下に漫然とさらしているような傲慢な心のままであってはいけないのです。

 朗読用に短く書き直された「めくらやなぎと、眠る女」には「やらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない。でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ」という、すべての言葉に傍点が打たれた文章があります。

 村上春樹の主人公は進んで悪をなすような人間ではありません。むしろ、穏やかで、好人物だと言えます。でも、それだけでは大切な何かが足りないのです。そこに留まっていてはいけないのです。「ここにだけは、いるわけにはいかない」のです。

 ガールフレンドのお見舞いにチョコレートを持っていく心は決して悪いものではありません。でも、それだけでは不十分なのです。

 チョコレートの箱を8月の太陽の下に漫然とさらしているような「心」の場所にだけは「いるわけにはいかない」のです。「僕」は「めくらやなぎと、眠る女」の「彼女」の死のような世界に触れて、そのことにハッと気づくことで、立ち上がることができます。

 この「心」の闇の中の闘いを通して、「僕」は成長していますし、その力が世界を作り直す力ともなるのだと思います。もしかしたら、悲惨な「地震」の被害を未然に防ぐ力となるかもしれません。『神の子どもたちはみな踊る』の中の「かえるくん、東京を救う」で、かえるくんと片桐が地下の闇の中で闘い、巨大地震を未然に防いだように。

 「阪神大震災」に遭った、自分を育ててくれた地の人たちに伝えたかったことは、そのようなことではないでしょうか。私はそのように考えています。

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 「東日本大震災」から10年。この「村上春樹を読む」も10年です。毎月書いてきたので、長かったような、短かったような時間です。

 10年前、東京と「東日本大震災」の被災地の間の往復をバスで移動しましたが、その間、加藤典洋さんと村上春樹作品について、何度か話しました。

 帰途、『神の子どもたちはみな踊る』の中の「UFOが釧路に降りる」について、加藤典洋さんの読みの素晴らしさについて伝えたこと、その時の加藤典洋さんのはにかむような表情も忘れ難いです。

 加藤典洋さんは『村上春樹 イエローページ』(1996年、2004年)をはじめ、村上春樹作品解読の道を切り拓いた人だと言っていいと思います。その加藤典洋さんも2019年に亡くなってしまいました。時は流れているのだと感じています。

 次の「村上春樹を読む」では、私にとって村上春樹を初めてインタビューした『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)を通して<地震と村上春樹作品>について考えてみたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)