向上心、とか呼ばれる類いのすべてが、おしなべて嫌になることがある。どんなにささやかなものでも、だ。「駅ではエスカレーターではなく階段」とか、「コンビニランチはサラダチキンと野菜ジュース」とか。そうしたほうがいいのに、なんでしないの?と、正しく生きる人々は澄み切った目で問うてくる。彼ら彼女らにわかる言葉で、その問いに対する反論を用意しようと思うのだけれど、そもそも「彼ら彼女らにわかる言葉」がわからない。正しいとされていることを、正しいと純朴に信じきれる、その魂がわからない。

 本書の主人公「優花」は、ぱっと見は家庭的な清純派に見えるのに、実は大の料理嫌い。好きで好きでたまらない相手「真島さん」の好みのタイプが「料理が上手な子」であることが、彼女の人生の大きな関門だ。やがて真島さんは、料理教室の講師を務める「沙代里さん」に想いが届き、付き合い始める。

 優花は、何の邪念もなく「料理が好き」でいられる人々を大いに妬む。自分も、料理が好きになれたらいいのにともがく。一方、男たちは無邪気に「料理の上手な女性っていいですよねー」とか言い合っている。その理由を尋ねると「真島さん」は言うのだ。自分は極めて適当な人間で、「正しさ」に則って生きられない性質なのだと打ち明けながら。

「『料理は愛情』って自然と思えたり、無理しなくても『料理が好き』って思えること自体、正しいものを好きになれている証拠じゃないですか」。

 自分の心が震えるかそうでないかを脇に置き、「正しいか正しくないか」を「好きか好きでないか」にすり替えて生きていく。世代を問わず、こういう人が決して少なくないのだと思う。自分は「正しい」のだから、胸を張っていい。そんな安心感に「幸福」という名前をつけて、人は今日も、日々を重ねる。

 でも、「正しさ」イコール「幸福」なのだとしたら、その「幸福」にはどうしても乗れない人間が、この世には、一定数いるのだ。

 本書は、報われぬとわかっていても、それでも「好きになりたい」ともがく人たちの物語だ。「好きじゃないけど好きになりたい相手」と「嫌いになれたら百倍ラクになれるのに、どうしようもなく好きな相手」の間で揺れ動く。何の疑いもなく「正しさ」を振りかざす人より、ずっと誠実で実直な人々。「正しさ」に代わる自分だけの言葉を見つけて、登場人物たちは前を向くのだ。

(文藝春秋 1600円+税)=小川志津子