「野」の反対語は「官」。つまり「野の古典」とは、教科書や学校の授業で排除された古典の一面や作品の紹介を旨とする。そう聞いただけでワクワクする。教室の外に広がる野っ原にはいったい何があるんだろう?

 冒頭の「古事記」では美しい姫が大便をする時、その性器に自らを突き立て我がものにする神様の話が紹介され、藤原定家の和歌からは濃厚なセックス描写を読み取る。語りの文学「平家物語」の「祇園精舎の鐘の声」は実際に「しょ、ぎょ〜ん、おーん(諸行)、む、じょ〜ん、お〜ん(無常)」と響いたのではというオノマトペ説を示し、「東海道中膝栗毛」では弥次喜多コンビによる糞尿、男色趣味のハチャメチャぶりを明かす。

 といってもエロ・グロ・ナンセンスが主題ではない。能楽師の著者が日本や中国の古典を読むに当たって勧めるのは「身体的に読む」こと。すなわち原文に触れ、声に出してゆっくり読む、節をつけて謡(うた)う、興に乗れば立ち上がって舞う――。身体で読むことによって古典は「異質の世界、異次元への精神の飛翔」をもたらし、私たちの単調な日常生活をリフレッシュしてくれるという。

 ポップでくだけた語り口ながら、歴史や文学への深い造詣を基に繰り出される読みや洞察によって、いかめしい顔つきで端座していた古典の数々がたちまち豊かな表情で動き出す。

 例えば「おくのほそ道」。芭蕉が江戸を旅立った1689年は西行の五百回忌、源義経の没後五百年に当たる。芭蕉は崇敬する西行による崇徳院鎮魂の旅をなぞり、義経の怨霊鎮魂のため奥州平泉に向かったという。そのルートを実際歩いた著者が、芭蕉も親しんだ能を手がかりにその句境を読み解くと、新たな「おくのほそ道」像が鮮やかに立ち上がる。「芭蕉忍者説」よりもはるかに深く陰影に富む。

 古典には生き霊も魔物も生けにえもリアルに存在する。LGBTQも普通にいる。何がいるかわからないが、やっぱり教室よりも野っ原のほうが刺激的で面白い。

(紀伊國屋書店 1800円+税)=片岡義博