私の生まれ育った町を「下北国(しもほっこく)町」という。

 小さい頃、家の住所は三井寺に近いことから大門通りやし「北国町」って、何のことやろう?とぼんやり考えていた。幸か不幸かその甘さがたたり、小学校に入学して、町名で班分けし指導してもらう最初の「移動教室」の時に、自分がたどり着くべき「町名」がわからず、半泣きになりながら校舎の中をウロウロしていたことがある。

 同じ町内のお姉さんに手を引かれながらようやくたどりついたのは、上中下がひとまとまりになった「北国町」の部屋だった。祖父や父から、「家の前の道は“ほっこくかいどう”いうて福井までつながっとるんやで」と教えられ、それから漠然と「そうか、『ほっこく』とは『福井』、北の方を指すんやな」と理解していた。

 その道は、琵琶湖の西岸を通り、敦賀・小浜に向かう道を「北国海道」といい、東岸を通り中山道が彦根・鳥居本から分岐して府中に向かう道を「北国街道」ということを知ったのは随分たってからだ。そして私にとっての「北国」は「お魚のおいしい国」という、今考えるとなんともかなえの軽重を問われるような認識だった。なぜなら、夏休みに気比の松原で楽しんだ海水浴の帰り、敦賀駅で買ってもらう「鯛(たい)寿し」は、たいへんなごちそうだったからだ。

 仕事の都合で、各地を巡ったが、家族や友人、親戚からも「ごはんのおいしい所にばかり行くなあ」といわれ、心の中で「人生で一番大事やろう?」と、切り返す今日この頃である。

 さて、そのおいしい「北国」の武生には国府があった。実家のある大津市西岸にはかつて大津京が置かれ、瀬田川をはさんだ東には近江国府があり、関連の遺跡が発掘されている。国府には国庁(国衙)があり、司法や軍事・宗教の中心があったといわれている。越前国に置かれた武生の国府もまた、そのような役割を果たしていた。交易や兵役のため、人々が通るために道ができたのだろう。

 古代に整えられた北陸道は北方の国々との大動脈であり、特に江戸時代、幕府によって「五街道」が整備され、都から近江を通り「北国」に向かう道は脇往還として次のルートが知られている。琵琶湖の東岸を通る北国街道、琵琶湖の西岸を通る北国海道は、敦賀から先、府中に入るため舩(ふね)を使って河野から陸路を通るルートと、従来の北陸道などである。そして、琵琶湖上を行き交う舩は近代まで主に堅田で造船され、各湊(みなと)へ回漕(かいそう)され人や物の流れを支えた。

 北陸道の一部が近世以降に整備され北国街道となった。その後、国府は「府中」と呼ばれるようになり、街道に沿う形で発展してきた重要なポイントであり、地名や遺跡、寺社をはじめ、文化財からもその一端をうかがえる。

 私が越前市役所に入庁する10年ほど前、武生公会堂記念館で開催されていた「真盛上人展」を観に来たことが、初めて越前市を訪れた機会だった。その展覧会の主人公である真盛は、室町時代に西教寺(大津市)を復興した人物であり天台真盛宗の祖として知られている。同時期に活躍し浄土真宗を中興した蓮如もまた、北陸での布教を広め、人々に大きな影響を与えた。市内には、真盛、蓮如の足跡を残す寺院が、そして中世以前の由緒をもつ寺社が現在もその歴史を刻んでいる。

 武生から府中という流れのひとつのポイントには、宗教や産業、文化などさまざまな歴史が折り重なり、凝縮されているように思われるのだ。これからも、伝来した貴重な資料から新しい発見や今を見直すきっかけを探っていきたい。

⇒エッセー「時の風」一覧

 ■いそべ・ひろこ 1975年生まれ。滋賀県大津市出身。京都精華大学人文学部人文学研究科修了。滋賀県栗東歴史民俗博物館学芸員、同県日野町町史編さん室、三重県亀山市市史編さん室などの嘱託職員を経て、鳥取市歴史博物館学芸員、2017年福井県越前市入庁。18年から同市文化課学芸員。

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