先月20日、県内初の重要文化的景観への選定が決まった越前海岸の水仙畑。福井市下岬地区の水仙畑では、黄葉した銀杏(いちょう)と青々とした水仙、そして冬の日本海が美しい光景を作り出している。そんな中に、私なら転げ落ちそうなほど急な斜面で収穫している農家さんを見つけると、本当に感心してしまう。11月下旬から水仙の開花が始まった現地は、今まさに収穫の最盛期。でも多くの人が期待するような一面に咲く水仙はまだ見られない。どうしてだろう?

 出荷される花き類は皆そうなのだが、水仙は蕾(つぼみ)のまま出荷され、花を生ける人の手元に届いてから開花が始まるようになっている。水仙はお正月を彩る花として古くから華道で珍重されており、12月が出荷のピークとなる。一面に水仙が咲くのは、収穫のピークが過ぎた1月以降だ。

 華道における越前水仙の評価は高く、他の産地と比べ、葉や茎の芯が強く、花は長持ちし、香りも豊かであるという。日本海の潮風に耐えながら咲くことによる特性なのだろうか。しかし自然のまま出荷すればいいというわけではなく、評価を維持するため、越前水仙には他にはない厳しい出荷規格が設定されている。生け花に適した40~50センチの長さで4枚葉のものが最も秀品とされ、その前後の長さのものや3枚葉のものはランクが下がる。葉が花の茎より短いものや、葉先に赤い点があるもの、葉が切れたり折れたりしているものはさらに安くしか売ることができない。越前水仙は露地栽培中心のため品質の維持が難しく、近年は夏の高温などの影響からか出荷規格に適合できない水仙も増えているそうだ。

 そもそも越前海岸で水仙が出荷され始めたのは、明治の終わりから大正の初め頃といわれている。福井市街の花屋で淡路島産の水仙が売られているのを見た下岬村居倉(現福井市居倉町)の人が、越前海岸の急崖(きゅうがい)に自生していた水仙がお金になることを知り、その球根を斜面や畑に植えて栽培しだしたのが始まりとされる。以降、交通網の発達により関西や中京方面へも出荷が行われ、地元では組合を作って出荷体制を整えていった。国の減反政策や水仙の特産品化などにより、さらに栽培面積は増えていき、それまで田畑だった場所も一面水仙畑に替わって出来上がったのが現在の景観というわけだ。

 水仙出荷量はピークの1989年には県内全体で570万本もの出荷があったが、現在は100万本に満たなくなっている。先ほど挙げた規格外の水仙が増加していることのほかに、生産者の高齢化や後継者不足で畑の草刈りなどに十分手が回らなくなっていること、イノシシやシカによる獣害が広がっていることなどがその理由と考えられる。特にシカの食害は深刻で、毒のある水仙をシカは食べてしまう。メッシュ柵の設置等の対策も行われているが十分ではない。「これを放置すれば、数年のうちに水仙畑は無くなってしまう」と危惧する農家もいるほどで、景観の維持のためにシカ対策は必須だ。

 様々(さまざま)な課題がある水仙栽培だが、水仙は福井県の県花であり、水仙畑の広がる豊かな景観は国の重要文化的景観にもなる。このかけがえのない地域の宝を守っていく使命が私たちにはあるはずだ。そのためにはこの地域のことをもっとよく知らなければならないし、もっと多くの人にその魅力と課題を発信していかなければならない。

 現在、福井市文化財保護課では、越前海岸の水仙畑をフィールドにして、ローカルフォトスクールを開講している。カメラと写真の力で地域の魅力を見つけ発信したいという意欲あるメンバーが集まり、地域の抱える課題に目を向け、その課題を価値として生まれ変わらせる写真術を学んでいる。この活動を通して、地域に暮らす里・海・山の達人たちと触れ合いながら、美しい風景だけではない、豊かな風土と人々の営みを発見していきたいと思う。そしてその感動を一人一人の写真と言葉で発信することで、越前水仙やこの地域の未来を一緒に考えてくれる人を増やしていきたい。

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 ■ふじかわ・あきひろ 1978年越前町(旧朝日町)生まれ。早大第一文学部卒。2003年福井市役所に学芸員として採用され、市立郷土歴史博物館で主に考古学・仏教美術の展示や教育普及活動を担当。17年から文化財保護課に勤務。泰澄大師開基を伝える朝日観音福通寺住職(真言宗僧侶)。