◆獅子ゆずの季節になりました。

 今年も獅子ゆずの黄色い大きな実が枝もたわわに実りました。獅子ゆずになじみの何人かの方々に連絡するとすぐに取りに来て下さったのです。再度ほしいと連絡して、取りに来られる人たちもおられます。

 保育園の職員の人たちも、ママレードや、ジャムにととても喜ばれるようになりました。近くの小学生の子は、お風呂に入れるからほしいと言ってきました。

 ドイツに住む娘には帰国の季節に合わないので、昨年思いついて蜂蜜を入れてママレードにして冷凍しておいたのです。しかし、今年の夏は帰って来られず、今年の獅子ゆずが採れる季節となり、重なってしまうのですが、解凍してヨーグルトやパンに付けて食べてみました。今年の作ってすぐのもおいしいのですが、昨年のは うまく作れていたのか意外においしく、冷凍保存も悪くないように思えました。

 獅子ゆずに比べて、畑の作物は 今年の異常な暑さのせいか、これまでになく虫が多く、少し早めに植えて大きく育った折角の白菜や、大根の葉はまるでレース状です。これまで農薬を使ったことがないので多少は虫が付きましたが、それほど気になるほどではなかったのです。今年のようなこんなに虫の多い年ははじめてのように思われます。

 はじめは虫の糞かと見間違った五ミリくらいの小さな黒い虫が葉に群がっていて野菜をふるとパラパラと落ちてくるほどなのです。それが五ミリくらいの飛ばない黄金虫?のような虫に成長して引き続き白菜や大根菜などの葉を次々とレース状にしていくのです。コンパニオンプランツとして近くに蒔いたレタスや、春菊は何の被害もないのです。

 まるでイナゴの大群が押し寄せて農作物を食い荒らして去っていく話を思い起こさせるほどの状況なのです。やむを得ず、体に無害だと表示されている有機的な薬をやってみましたが何の効果もないようです。水に二日ほどつけておいても何の効果もありません。洗濯用の洗剤を薄く薄めてそこに漬けてみると間もなく死にました。

 かといってその洗剤を薄めたものや強い農薬を散布する気にはなりません。こうなれば、白菜や大根の生長力が優るか虫が優るかを見届けるしかありません。しかし、さすがです。結球した白菜は、外の葉を多めに取れば、中はきれいでまだ虫に食われてなく十分に食べられます。大根も、大きく太ってきて少しずつ抜いて食べられるようになってきました。しかし、芽が出て間もなくの、ある程度までに大きくなっていないときに襲われた蕪はその畝は全滅で助からず、たくさんのおいしい蕪を期待していただけにとても残念でしたが、蒔き残った蕪の種を別のところにも少し蒔いておいたのです。それが 今ではとても柔らかく甘い蕪に育って、毎日おいしくいただけ、なんとか助かっているのです。

◆子どもたちの悲鳴に耳を傾け、その声に真摯に向き合ってみませんか? 

 シュタイナーに関する文献の読み合わせも、職場復帰により参加できなくなったお母さんたちもおられ、多少メンバーも入れ替わり、お母さんというよりも、シュタイナーの思想に関心のある方々も加わり、一回一回をできるだけ密を避けるよう、戸外での読み合わせでやってきたのです。

 新しく参加される方々は、福井にもこんな方がおられたのだ、福井もなかなか捨てたものではないと思える方々ばかりで、かつて私がつながっていた世界の人たちと強くつながっておられる人たちでもあったのです。ですから、すっかり忘れかけていた遠い昔のことが懐かしく思い起こされてきたり、また違った面から世界を広げていただいたりと、そこでは本音で話し合える貴重な学び合いの場ともなってきているのです。

 そして これまで保育園はこうした素晴らしい多くの方々とのつながりのなかで見えないところで支えていただいていたり、そうした出会いの中で得た沢山のことを保育に活かさせていただいてきていたことも、今思いも新たに気づかせていただく機会ともなったのでした。

 このコロナで学校が休みになった分の遅れを取り戻すためか、まだ低学年のお子さんであっても宿題の量が半端でないと近くに住んでおられる親御さんが悲鳴を上げておられるということや、お子さんが学校に行かなくなって、ご家族にとってもその精神的負担も大きく、何か手がかりを得たいとご家族の方が読み合わせに参加されました。その方々のお話を聞かせていただく機会ともなりました。

 それまで学校を休むということなどは全くないお子さんで授業にも何の問題もなく充分についていけていたお子さんが、このコロナでの休みの後、その宿題の在りようなどの精神的負担からか登校できなくなってしまっているというのです。

 そうしたときは、まず、誰もが“なぜ学校へ行かないのか”というその原因探しから始まるものですが、その理由を本人がはっきりとつかめている場合と、いろいろな原因が重なっていて自分でもはっきりとつかめないままに、ただ学校には行かない、或いは、行けないでいるという場合も多いということです。ですから、行かない理由を聞いても本人は何も言わないのでわからず、結局原因探しをしても意味がなく、次第に触れなくなってきているというのです。

 お子さんが登校を拒否して、学校にも行かず(本当は行きたいのだが行けない場合もある)そうしたお子さんを、家族で受け止めなければならない現状を目の当たりにお聞きするとき、今日においては、これはある一家庭の問題だけでは決してなく、社会全体で考えていかなければならない問題のように思われるのです。

 意識的にあるいは無意識的にでも意識の進んだお子さんの場合 外側からのルールに従って行動しなければならない、そうした生活に対して何か違和感を感じ、それが苦痛となってそうした自分の心の中の状況が優勢になって何となく学校に行かなかったり行けなかったりと登校を拒否したり、拒否するまでもなくても、何らかの形でそうした思いが様々な行動となって出でてくるのだとおもいます。

 時にはそれが学校での枠から外れた行動となって出てきた場合には○○障害児とかのレッテルが張られたりもするのです。そうした子どもたちの心の叫びや悲鳴に対して、周りの大人や社会が真摯に耳を傾け、真剣に向き合っていかなければならない時代に既になっているように思います。

 子どもたちの時代的意識を反映して、先日『青年の主張2020 コロナ禍の若者たちの“魂の叫び”に全集中』というNHKの放送番組で、様々なことがきっかけとなって学校に行かない、あるいは行けなくなったそうした自分の思いを表出できるお子さんたちの思いが、取り上げられていました。

 自分の思いをみんなの前にしっかりと表出できるお子さんは、今はまだ少ないかもしれません。しかし、外に向けて自分の思いをはっきりとまだ表出できるまでには至っていないお子さんでも、そうした思いは今の時代、どの子の中にももう既にあるように思われるのです。ただそうした思いがあっても、自分の中のそうした思いに気づいているか、気づいていないか。あるいは、言葉や行動を伴って表出できるか、できないかの違いだけのように思われるのです。

 清水礼子さんという方が、親御さんとして学校へ行かないお子さんと過ごされた苦しい日々をエッセイとして新聞に連載されておられます。清水さんと何らかのつながりが持て、そのつながりによって、当のご家族の心が少しでも軽くなり、何か解決の糸口にもなったらと思えたのです。取り次いでくださった方々のご厚意もあって、それからすぐに、清水さんとつながることができ、直接お話することができました。

 清水さんは、お仕事もあって、 そのご家族と直接会ったり、お話することは出来ないが、手紙などであれば…と言われて、『 学校へ行かない ~3人の我が子の体験と母の気持ち~』という冊子を2冊と、それまでのお子さんたちとの関わりの中で過ごされて来られた日々の思いからの実に暖かい思いがこめられた手書きのお手紙が添えられて 私経由ですぐに送ってきてくださったのです。その冊子は、新聞での連載の原型となっているエッセイを冊子にされたものだそうです。

手紙には、

 ―子どもが 学校へ行かない という生活は天と地が ひっくり返るくらい 生活への衝撃があると思います。先がわからなくて 不安で。それでも 親として 明るくふるまわなきゃいけなくて・・・。きっと 意志のある やさしくて たくましい 大人になりますよ。と その方へ お伝えくださいね。・・・いろいろな問題があり、親としての 度量を 試される 試練に 見舞われました。結局「何があっても可愛い我が子。」この 一言に 尽きると思いました。世間が どう思おうと, 何を言おうと 「かわいい 我が子」を 貫いて いいと思います。―

とそれまでの苦しいおもいや、たくさんの悩みの実体験をふまえられた中からのご自分の思いや励ましの言葉が添えられてあり、手紙などでのやり取りができるように連絡先も書いてくださっていました。

◆子どもたちの意識は変化してきているのです。

 保育の現場を離れて十年以上にもなるのですが、孫を通して、あるいは、畑が公園の前にあるためか、公園で遊ぶ小学生を通じて、子どもたちの意識の変化をそれとなく感じてきていました。身近な所でそうした小学生の子らとの関わりを通じて、子どもは、本来はいろいろなことを学びたがっているのだということも実感しているのです。

 例えば、畑で草むしりをしている私に‘お話していいですか’といって、私のそばに来て、‘ぼく畑をしたいのです’と言われた時もそうでした。その言葉がきっかけとなって、大根や、ジャガイモ、玉ねぎを一緒に植えて育てたのです。それ以来畑で仕事をしている私に声をかけてくれるその子たちのことがいつも頭にあるのです。

 自分のやりたいことをきちんと口に出して伝え、行動化できる子はまだ少なく一部の子なのでしょうが、しかし、声に出せなくても子どもたちの意識は明らかに、昔の子どもたちの意識とは違ってきていて、その子は今の時代の声に出せないでいる子たちをも代表しているように私には受け取れたのです。 

 こうした畑を作りたい子には、次のステップの畑作りをさらに継続してさせてあげたいと思うのです。それは全体で取り組む畑作りではなく、たった一畝であっても、各自がその一畝を責任をもって取り組むことを前提にした畑作りであった方が良いと思うのです。そして、そこで採れたものなどを使って、みんなで料理をしたことがあまりに楽しかったようでした。また料理をしたいと何人かの子たちから何度か言われてもいるのです。しかし、こんな時代でもありますし、個人的に彼らの希望にすべて応えるには畑的にも、私的にも限界があるのです。

 「畑作り」から「料理を作ること」、それが毎日の「食事と体についての学び」ひいては「自分たちの食事の見直し」などにも広がっていくことでしょう。

 子どもたちは、畑作りだけではなく、スポーツをはじめ、歴史に関すること、自然に関すること、などなど様々なことに関心を持っていて、環境が整えば、それぞれ自分のやりたいことが自覚でき、そのことに邁進していけるものなのです。

 今福井では、中学や、高校の部活の在り方についての検討が行われていると聞いております。私も孫たちの部活を通して、自分たちでしたいことができるように懸命に努力したことが学校制度的に否定され、涙する子どもたちを目の当たりにして胸を痛めたことがありました。そのことで真剣に部活の在り方についてもいろいろ考えさせられてきたのです。

 また福井市の郷土歴史館での話し合いの場に家庭教育の立場からお話を聞かせていただく機会があります。歴史館側からの学校等とのつながりについてのお話をお聞きするときいつも思うのです。歴史に興味がある子たちが、その道の専門家のお力をお借りできたり、お忙しい専門家の方々だけではなく、歴史に造詣の深い方々もたくさん関係しておられます。そうした方々のお力をお借りして、単発的なつながりだけではなく、継続的なつながりの中で、子どもたちのその興味や関心が広がり、深められていったら、子どもたちもどんなに喜びや楽しみの中で歴史の学びを深めていくことができるのではないかということをです。

 学びとは、たった一つのことからでも、本人にとってやりたいことから始めることがベストだと思います。それは子ども自らが、学びに対して能動的に臨むので、楽しさを伴う学びとなるのです。そしてたった一つの学びからであっても、さらに関連して必然的な学びへと学びが発展していくのです。

 しかし、この成長期の子どもは、まだ全てを自分だけでやれるわけではありません。彼らのやりたい気持ちに沿いながら、一方において見守り、導く人の存在もまだ、まだ必要な時期ではあるのです。

◆「喜び」と「祝福」を基調にした気分をアストラル的空間に流しこみ 光と喜びに輝く未来に転化させること

 お母さん方との読み合わせの中で、悶々とした何かと抑圧感を感じながらの毎日に対して、発せられている問いに対して、あるいはまだ声に出して問われてはいないのですが、聴こえてきている疑問に対して、あるいは自分の内なる思いに対しての何かの手掛かりを得るべく、手持ちの本の中で過去の講演録や気になって思いついた本などをいろいろと読み直しておりました。

 そうしたなかに、私の身近な子どもたちと重なる、現代の子どもたちの意識の在りようや、現代の教育に対して書かれている文章が目に留まりました。

 それは、1988年12月18日に発行されている、高橋巌氏による『千年紀末と社会の未来』の講演録に書かれている内容です。

 ―現代は、一人ひとりの人間の中に無限の可能性を開発する時代なのです。外側に枠があって、それに適応するのが今の時代ではなく、自分自身の内部に創造的な可能性を発見していく時代であるのです。―

 ―自由主義の経済の中では、教育制度の中に典型的に出てくるように経済的な原則に従って教育の原則まで規制されようとしています。教育は、一人の若者を非常に価値ある商品に作り変えることに他ならないのです。それを経済原則に従ってやるのが自由教育の原則になっているのです。―

 さらにその講演録の内容は、それまでの不安な、重い気持ちが瞬時に転換できて、心にぱっと明かりがついたかの思いのする文章に続くのです。

 その前年度の講演内容が『悪の働き』でしたので、今年は正反対の「喜び」についてお話しようと思っています。と前置きされて始められているのです。

 12月になるとほうぼうでベートーベンの第九交響曲が高らかに歌われるようになります。これは、先日のテレビの放送による聞きかじりですが、フランス革命において自由を渇望した市民が若きフリードリヒ・シラーが作詞した『喜びへの賛歌』のその作詞を受けてベートーベンが交響曲の中で、肉声を通してその詩にうたわれた「自由」を当時の社会の状況での報復を深く配慮して「喜び」に替えて聖なる「喜び」の賛歌を皆で響かせようとした曲だということです。

 そのシラーの『喜びへの賛歌』にも通じるようなものを、神秘学の観点から取り上げ、その「喜び」の本質を考えようと思うという内容で講演されたのです。

 30年以上も前の講演ですが、何か今の社会状況ともそれほど違わず、当てはめて考えられる状況だと思えたのです。

 ―世界最高の権力者たちが基本的にどういう衝動で政治を行っているかというと、一口で言うと不安感によって政治を行っていることがわかるという。
その根底にある発想は、不安感と恐怖感とそれから憎しみだというのです。
そういう不安感や憎しみの感情が政治の分野や社会の分野で広がっていくと、必然的に、核兵器による戦争に向かって突き進んでいくことになります。……神秘学的に言うと、私たちを含めての地球全体の一種のアストラル的な空間の中に、否定的なエネルギーをどんどん充填することなのだというのです。

そういう中で、今一番必要なのは、どんな小さな社会的な単位でも、ある社会的な単位の中で、全く違った、そこでは存在に対する不安感も人間どうしの恐怖感や憎しみもなく、ひとりひとり全く違った個性を持った者どうしが新しい種類の祝福された「喜び」を基調とした人間関係を作ることなのだというのです。そしてそれによって、アストラル空間の中に、全く違った力を流し込むのだというのです。

それは一般に考えるよりも大切なことで、目には見えませんが、私たちの共通感情を支配している大きな時代の流れの中に、私たちの気持ちをこめる行為なのだというのです。
大きな時代気分の中に、私たちがある種の人間関係を通して「喜び」と「祝福」を基調にした気分を流し込めば、明るい、肯定的なエネルギーをアストラル空間という集合的無意識が持つようになるというのです。

私たちの生活環境が抱えている様々な矛盾を、ベートーベンの第九交響曲のような、光と喜びに輝く未来に転化させること、それをすることは大変むつかしいことですし、そのプロセスは、まさに手探りで作っていかなければなりませんが、ともかくそこに道があって、その道の彼方に目標があるということだけでも、大変なことだと思います。そういう目標を私たちが共有できれば、同じ道を互いに助け合って歩いていくことができるのです。と書かれてあるのです。
(『千年紀末と 社会の未来②③ 人智学講演会 講演録 高橋巌』1988年12月18日発行 関西ルドルフ・シュタイナー研究会出版 より)

どうぞ新しい年が、喜びと祝福に満ちた年となりますようによき新年の訪れを心から願うのです。
 

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