子どもの頃から石が好きだった。河原で遊んで、よく石を探した。黄色と白の艶のある「油石」を見つけると、家に持ち帰って机の引き出しに集めた。この「油石」とは何だろう。油のような光沢がある石ともいうが、いったい誰がそう呼んだのか。

 そもそも、人はなぜ石に心が惹(ひ)かれるか。そして様々(さまざま)な石の名は、誰がつけたのだろう。石好きには興味がつきない話だ。

 調べると、古代の日本では石の名は少なかったようだ。千年以上も昔の辞書には、宝物の「たま(玉)」以外に、「いわ」「いし」「かるいし」「さざれいし(細石)」「すな」「きらら(雲母)」くらいしかない。大きさによる区別がメインになっている。

 また面白いことに、古歌「君が代」で「さざれいし(細石)のいわほ(巌)となりて苔(こけ)のむすまで」と詠(うた)われるように、小石が巨岩に成長すると信じていたらしい。砂や粘土などで固まった礫(れき)岩、砂岩などをみて、そう思ったのだろうか。

 そんな日本人に、石への関心を呼び起こしたのが「本草学(ほんぞうがく)」だった。古代に中国から伝わり、さかんになったのは江戸時代。すべての物を「薬効」の観点から調べる学問で、薬物学ともいえる。対象は植物を中心に、動物や石も含んでいた。薬になる石を「石薬」と呼ぶ。この本草学の普及により、日本でも石の名がいっきに増えた。「磁石」「方解石」「長石」なども中国から来た呼び名。用途とともに、見分ける石が多くなったわけだ。

 次の波が、13世紀ころに禅僧が中国から伝えたとされる「盆石」「水石」。盆や水盤のなかに石を置き、その姿を自然の景色に見立てる世界。貴族や武士のあいだに広まった。川石や山石などの「自然石」を好んで用いた。16世紀末に訪れたイタリアの宣教師が、輝く宝石より素朴な自然石を愛(め)でる武士たちの趣味に驚かされたという。東西の精神文化をみる上でも、興味深い話だ。

 そして、いよいよ第三の波が西洋の「鉱物学」。明治政府による導入が、日本人の石観に大きな変化を与える。ちなみに、明治時代まで日本では「鉱物」という言葉は使われなかった。もっぱら「金石(きんせき)」と呼んだ。これは「本草学」の用語で、金属や石、玉類を指した。今の私たちにはあまり耳慣れない言葉だ。

 ここから、いよいよ今日につながる日本の近代鉱物学が出発。その幕開けに大きく貢献したのが、和田維四郎(つなしろう)という人物。日本の「近代鉱物学の祖」とされる超有名人、ビッグネーム。地質学や鉱物学を学ぶ人の間では、知らない者はいない。

 その人が、小浜の出身。秀才で努力家。明治時代の初めに小浜藩の奨学生として上京、大学南校(現東京大)でドイツ人から西洋の鉱物学を学び、後に日本の第一人者となる。若くして日本の地質や鉱物の調査研究を行い、1876年には、二十歳で「金石学」という鉱物学の教科書まで編んでいる。

 このとき和田は、外国の鉱物学の書物を翻訳して「フローライト」を「蛍石」、「ガーネット」を「柘榴(ざくろ)石」、「オブシディアン」を「黒曜石」、「マラカイト」を「孔雀(くじゃく)石」などと、今でも使われる石(鉱物)の名を振り当てた。地方の方言も採用したらしい。まさに「開祖」と呼ばれる所以(ゆえん)がここにもある。福井県人としては誇らしい話。ただ、残念ながら「油石」は見当たらない。

 そして今年は、和田の没後100年にあたる。県立こども歴史文化館では、それを記念する特別展「石ものがたり」が開かれている。美しい鉱物標本とともに、和田をはじめ鉱物、鉱山の分野で活躍した福井県出身の先人を紹介している。ぜひ足を運んでみてほしい。

 じつは、福井県からは和田を筆頭に、数多くの著名な鉱物学者が出ている。県民はあまりこの事実を知らないが、他府県の方から、「なぜか、福井県は多くの研究者を生み出している」と言われることがある。

 幕末の時期から教育に力を入れてきた地域性が影響しているのか、その理由、背景を探っていくのも面白いテーマだ。

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 ■かさまつ・まさひろ 1956年勝山市生まれ。筑波大第一学群人文学類卒。勝山高教諭、福井県史編さん課勤務、県立博物館、県立歴史博物館学芸員を経て、2009年、県立こども歴史文化館館長。17年退職後、今年3月まで同館嘱託館長を務めた。