生きる、ということについての物語だ。人生は、終わるものではなく、続くものであるという物語。去りゆく者がいて、その魂を受け継ぐ者がいる。人の営みは、そうやって、どこまでも続いていく。

 主人公は会社を辞めたばかりの村上真芽。「まめ子」と呼ばれて育った彼女は、祖母であるハルの入院の報せを受ける。夫を亡くし、ひとりで暮らしていたハルが入院した原因は骨折だったけれど、認知症の症状もみられ、調子の悪いときには会話がうまく噛み合わない。真芽は、幼い頃に自らも暮らした、ハルの家を訪れる。荒れ果てた庭、そして家の中。真芽は、この庭を、そして家全体をよみがえらせようと決意する――。

 認知症。ドラマを呼ぶ題材である。しかし本書は、そこには焦点を合わせない。物語の軸足はそこではなく、真芽の奮闘によって息を吹き返していく、一軒の家の歴史にある。最初は雑草抜きから始まって、生気をなくした植物たちの声を聞く。花屋の息子で、今はホームセンターの園芸コーナーで働く幼馴染の「藤原君」がかなりの仕事を果たす。同時進行で、真芽の脳内では、この家で暮らしていた頃の思い出が大いに去来する。両親と共にこの家を出て、ハルをひとりきりにしてしまったことへの後悔も。

 真芽が幼かった頃から、ハルは丹精込めてこの庭を育てていた。植えられていたのは、美味しい実をつける果樹ばかり。レモン、ブルーベリー、ラズベリー。そこに秘められたハルの真意に、真芽が気づくのは物語のだいぶ後半のことである。そしてその瞬間こそが、真芽のターニングポイントだ。

 ハルを介護施設に入れた親や叔母たちが、この家を売りに出す計画を進めている一方で、真芽はかつて自分が捨てた夢を思い出す。小さな諍いをきっかけに、夢のすべてをあきらめていたけど、あのとき失われたのは夢の一部分でしかなくて、大部分はまだ可能性を秘めていたのだということに気づくのだ。

 「終わり」ってなんだろう。物事が、人生が、「終わる」っていったいどういうことだろうか。私たちが「もう、終わりだ」と天を仰ぐとき、いったいどれほどのなにが本当に「終わって」いるのか。人生は、「終わる」ものではない。私たちは今日も、昨日の続きを生きているのだ。

(新潮社 1600円+税)=小川志津子

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