今、皆さんはどうされておられるのだろう。当時でも私はずっと皆さんよりは年下でしたので、皆さん御存命なのだろうか、まずはそのことが気がかりでした。そして小さな島の中を、海からの、空からの、陸からの艦砲射撃や銃撃の中を逃げまどわれた皆さんから聞かせてただいたことや、ご一緒させていただいた中でのいろいろな出来事が思い起こされてくるのです。

★テニアンのっホテルであふれる涙をぬぐいながら「海から空から陸からの射撃を逃れて洞窟に逃げ隠れしながら逃げ惑う家族にも、これが最後と決意せざるを得なくなって“あなたは長男だから生きて帰るように”と言われて、一家自決された?という。そして一人逃げている時、死体の転がっているところを逃げるのはまだ怖くはなかったけれど、死体も何もないところはとても怖かったという、今日の私たちの状況からは推し量ることの出来ないお話しをされた、テニアンには何度かご一緒させて娘たちとも親しくさせていただいていたSさん。

★ロタ島で、早朝、いつの時代かわからない太古のロッテ・ストーンの採掘現場見学のオプショナルツアーに出かけた折に話してくださったことです。

朝早く、まだ辺り一面朝露に濡れていてさわやかな空気の中、緑の梢を飛び交う無数の白い鳥々を眼下に朝食のお弁当を広げました。海を見ていると自然に戦争のことが思い起こされてくるのでしょう。つい話題は戦争中のことになってしまいます。南洋の島々で生まれ、あるいは育って、戦火の中を逃げまどわなければならなかったたくさんの人々は、皆さんそれぞれに、人に言われぬ悲しい体験をされています。Kさんもご家族と逃げまどわれた悲しい出来事を話し始められたのです。実はねえ、加藤さん。私は、サイパンで、戦火の中家族で逃げて洞窟に逃げ込んでいたとき、まだ赤ん坊だった私の妹の鳴き声が外に漏れ、敵兵に見つけられると洞窟に隠れているみんなに迷惑がかかるので家族が妹の口を封じてしまったの…。
そして私もサイパンの万歳岬から飛び降りたの、でも飛び降りたところが死体の上だったから、今、私がここにこうしているのよ。と半ば笑いながら語ってくれた会津のKさん。その時万歳岬の海はオレンジ色に染まっていたという。

そして現地調達と称して間に合わないと思えるものまでも根こそぎ取り上げていった、当時の軍のあり方を怒りを込めて話してくださるのでした。(<さらに南下して憧れの島ポナペへ>参照)
東日本の大震災の時心配で何度かお電話させていただいたのですが通じなかったのです。お元気でしょうか。

★そして、テニアンで父と一緒に看護婦として働いておられたというYさん。確か上野の精養軒だったと思いますが初めてお会いしたときです。

私の着くのを今か今かと入り口で待っていてくださった方がおられました。それは南興会のお世話をなさっているWさんという方でした。私の父を知っている方がいて待っているから早く会うようにと言われるのです。着くや否やいきなりのことでしたので何がどうなっているのかもわからずに、その方に引き合わせていただきました。その方は私の顔を見るなり、「徳山先生によく似ておられます」と食い入るように私を見つめ、まるで昔から私をよく知った人のように親しみのこもった思いで話してくださるのです。戦後50年たってようやく初めて私の南洋での家族を知っていてくださった方にお会いできたのです。

その後ずっと独身で東京での一人暮らしで、テニアンにご一緒しましょうと何度かお誘いしても、「私はテニアンにはいく気にはなれない、行きたくないのです。」と。戦争中、多分テニアンの収容所などの看護婦として残ってお勤めを果たしておられる間の、精神的なご苦労が今なおYさんの心を鋭く突きさしていて、テニアンにはなおさら身を向ける気にならないのだといわれるのです。

日本に帰られてもずっと誰にも会いたくなく一人で山にこもっていたい思いだったとつらい思いを吐き出すように言われる言葉を聞いて、私はそれ以上何も言うこともできませんでした。戦争はもうとっくに終わっています。そしてその戦争の傷痕も豊かな日本においては日々忘れ去られようとしています。しかし、戦争で心にも深手を負った人々の胸の中で、その傷は癒されることなく口にさえ出せない辛い思いとなって、今もありありと存在しているのです。身近にこんな苦しみを聞こうとは思いもよらなかったことでした。私は本当に戦争のことは全く何も知らないのだということを、まざまざとYさんの一言で思い知らされたのです。

平成4年11月20日、Yさんよりいただいた手紙の抜粋です。

お手紙ありがとうございました。お返事がこんなに遅くなって御免なさいね。十月の暮れ南興会で突然思いもかけずご来会くださいまして、徳山先生にこんな素晴らしいお嬢様がおいでたのかと驚きました。生まれて間もない時 國策の事情により内地送還になり、別れ別れになった お父様を思うお気持ち敬服します。

できる事なら確かな手ずるを つかみたいと あの大勢の人の集まっている中で 戦死した人が いかにせん 長い年月の為 忘れ去られようとしています。 が たった一つ 南興会において 私の テーブ(テーブル?)の 中に 徳山先生 記憶がのこっていました。

昭和十九年二月十八日 アメリカ海軍の大艦隊が襲ってきました。私と 佐瀬先生は別れ別れになってしまいました。佐瀬先生は 徳山先生と交代して テニアンの外科に来られた人です。壱ヶ月か 弐ヵ月?前が平和であた(あった)時分に徳山先生は 外科におられたのです。…その後手紙には父の行方の手掛かりとなるのではないかと思われることをいろいろと書いてくださっているのです。

その戦争での口に出せない数々の体験を胸に秘めたまま語って下さることなく亡くなられたYさん。後にアルバムに貼ってあって、剥がすときに少し破れたという父と兄のセピア色に変色している貴重な写真を送ってきてくださったのです。

★テニアンではまだ星の砂の残っていた、かつてその海岸から上陸艇が上陸したという海岸には、その頃でもまだ上陸艇の残骸だと説明を受けた赤さびた鉄の塊が、波打ち際に放置されていました。テニアンでは朽ちるがままのそうした戦争に使われていたものの名残が、島のあちらこちらにまだ放置されているのが何も珍しいことではないのでした。私もその残骸の一部の破片を持って帰ってどこかにしまってあるのです。

ヤシの木が茂るその海岸では、家族含めて二十何名かで逃げる途中で銃撃に会い亡くなられたという二十数名の人たちのお名前が書かれている紙を前にしてそのご家族の人たちが亡くなられた方々への祈りを捧げられておられたのです。

★引き上げたときに、乗っていた船が爆撃され、家族もろともみな海に放り出されて、助かったのは私だけとテニアンだったのか、上野の公園の精養軒でだったのか何処で聞かせていただいたのかは定かでないのですが話して下さったTさん。