私は家族がポナペ島からさらに北上した北マリアナ諸島連邦の一つの島テニアンに渡ってからその島、テニアンで生まれました。

テニアン島はサイパン島から5キロ離れた小さな島です。生前母からはよく南の島の思い出を聞かされて育ちました。そんな母から聞かされた南の島々をいつか訪ねたいと思っておりました。
南の島々への正確な記憶も薄らぎつつある現在、拙著『 ふるさとへの思いからー越前水仙に導かれてー』<テニアンへの思い>に書いた文章を支えに少し記憶をたどってみたいと思います。

「グアム、サイパンに隣接した小さな島テニアンは、私が生まれた島です。物心ついたころから母が語ってくれる南洋の島々の名前や思い出は、いつの間にか私の体に一部となり、いつか一度は、生まれた島を訪れたいと夢見てきました。そして昭和58年12月やっと念願かなって、テニアンの地を踏むことができました。

テニアンはご存知の方もおられるかと思いますが、第二次世界大戦時広島や長崎に原爆を投下したB29エラノ・ゲイ号が飛び立った島でもあるのです。また日本全土を襲ったB29も40秒に一台の割でこの島を飛び立っていったというのです。うかつにも私は、その島を訪れるまでそのことを知らずにいたのです。ただ、ただ、母の言葉の中でマンゴやパパイヤがたわわに実り、ハイビスカスや南洋桜が美しく咲き乱れる南の美しい島を夢見ていたのです。」 

はじめてテニアン島を訪れたのは昭和58年12月でした。全く偶然に市立図書館で『玉砕島テニアン』(徳間書店)という本を見つけ、今の時代になってもまだ「テニアン」について書く人がおられるのだという思いでその本を手に取ったのです。その本との出会いがきっかけとなって石上正夫先生を知り、テニアンへの道が開けたのです。石上先生はテニアンには何度も出かけられていて戦争での様々な出来事を詳細に調べられて何冊もの本を書いておられる方でした。その石上先生のお誘いではじめてテニアンの島に足を踏み入れることができたのです。

それからも何度かお誘いをいただきながらもなかなか機会に恵まれず、再度石上先生からのお誘いでテニアンを訪れることができたのは最初にテニアンの地を踏んでから8年後の平成4年の3月でした。

テニアンを訪れたことがきっかけとなり、「サイパン玉砕50年」を記念して、サイパンにて全国南洋大会を開くにつけ、それぞれのゆかりの島を訪ねたうえで皆さんサイパンに集結しましょうという趣旨のご案内をいただき、その案内には、それぞれのゆかりの地へのコースがいろいろと組まれてありました。長い間見ることもなく本棚に置かれていた当時の「全国南洋大会 サイパン大会」の簡単な資料を思い出して取り出して確かめてみると「全国南洋大会」がサイパンで行われたのは平成6年6月5日のことでした。こうしてこの大会参加をご縁に初めてポナペ島へも足を踏み入れることができたのです。

ポナペに行くということを知って兄から一枚の写真を渡されました。その写真は、引き上げの時、荷物の積んである船は爆撃にやられてしまって、私たちの乗っている船だけがようやく爆撃を逃れ、母子着の身着のまま命からがら引き上げてきて、私たち家族に南洋での生活でのたった一枚の残された写真だったのです。

その写真には私たちの家族と一緒に家族を手伝ってくれたという島の当時まだ十代の少女も写っていたのです。兄が言うには、その少女の名はメールセといい、当時6歳ぐらいにはなっていた兄のメールセについての記憶をたどりながらいくつかのことを話してくれたのです。

当時において50年も前の写真です。そのメールセという人が実際に今もその島に生きているかどうかはわかりません。まして会えるなどとは思ってもおりませんでした。しかし、実際にあり得るとは思えないことが現実に確かにあって、そのメールセは生きていて、私の滞在しているホテルに会いに来てくれたのでした。

その時に着ていたブラウスがそのブラウスだったのです。そのことは口に出して人に話すようなことでもありませんでしたのでこれまで誰にも話したことはなかったのですが、このブラウスを着るたびに無意識に近い意識の中でメールセと会ったとき着ていたブラウスだとメールセとの出会いのあった証として思い起こしながら着てきていたブラウスでもあったのです。

娘に言われたのは8月でしたので、終戦記念日にちなんで、メデアを通じていろいろな戦争体験が語られる時期でもありました。そこで、ふと思ったのです。これまでの何度かのテニアン島や、ポナペ島などの渡南の折、かつて南に島々で暮らしていた人たちとご一緒させていただいたなかで、聞かせていただいたあまりに非常なことが常であった戦争中のむごい体験の話を私にもそれを語り伝える義務があるのではないか、と今更になってではあるのですが、そのことにふと気づかされたのでした。

折しも、毎年ご連絡くださる南興会事務局からのお葉書も送られてきました。例年は毎年10月に上野公園にある「精養軒」という食事所で食事会が行われてきたのです。しかし今年の第66回南興会懇親会はコロナウィルス感染拡大防止のために開催を中止するというお知らせでした。その食事会の代わりに皆様の近況や懐かしい南洋のお話を通信の形で届けたいので、皆さんの近況や皆さんに伝えたい南洋の思い出などを書いて送ってほしいとのことでした。

「南興会」というのは、戦前南の島でサトウキビを作って砂糖を作っていた製糖会社である「南洋興発会社」に関わった人たちで作っている会のことです。私も何度か南洋に行く中でそうした会があることを知り、父がその会社に勤めていたということもあって仲間に入れていただいたのです。そのお知らせをいただいてご一緒させていただいた方々のことを久々に思い起こさせていただいたのです。