「少ない食事、極寒の中の重労働だった」と抑留生活を振り返る荒川勇さん=福井県坂井市内

 「やっと日本に帰れる」―。旧満州で終戦を迎えた荒川勇さん(94)=福井県坂井市=が安堵の思いで乗った船の行き先は、旧ソ連だった。冬はマイナス40度に達する酷寒の地で粗末な食事しか与えられない中、3年近くにわたって強制労働に従事した。帰国から70年余り。つらい記憶も薄れてきているが、シベリア抑留者の一人として「どうにか伝え残していかなければ」という思いを強くしている。

⇒【言葉を刻む】戦争の時代を生きた人たちの証言

 満州生まれ。父が愛知、母が福井県の旧三国町(現坂井市)出身だった。1945年5月に勤め先の南満州鉄道撫順炭坑に召集令状が届いた。ソ連との国境付近で満州の防衛に当たる部隊に入り、塹壕(ざんごう)掘りや爆薬を抱え敵戦車に体当たりする訓練を積んだ。

 戦闘の経験がないまま終戦の日を迎え、日本に帰国できると聞いた。当時19歳。装備していた銃や短剣は全て中隊長の命令で置いていった。1小隊50人が乗れるほどの船に2日以上は乗っていただろうか。着いた港にソ連兵がいた。

 そこから目的も分からぬまま歩かされた。1中隊250人が5列編成で歩き、前後左右には機関銃を持ったソ連兵が同行していた。50分歩いて10分休憩。朝起きてから日が沈むまで、ひたすら繰り返した。疲労から、歩きながら居眠りして前の人にぶつかって目覚めたことも。どれだけ歩いたかは覚えていない。1日目は豚小屋で夜を越した。

 到着したのはおそらくソ連のアムール地方。収容所に移動し労働が始まった。主な業務は、ジャガイモをはじめとする野菜の植え付けや収穫、養豚場での餌やりと清掃。年に数回、石炭の積み下ろしの作業もあった。他の収容所では森林伐採や鉄道建設などを強いられ、栄養失調から死者も出ていると聞いた。

 食事はジャガイモのスープやかゆなど粗末なもの。すぐ近くに囚人の収容所があった。休憩中に彼らから教わり、くすねたイモを煮て食べたこともあった。

 冬はマイナス40度の寒さだが、積雪は数センチ程度のため、真冬でも丸一日外で農作業をさせられることもあった。広大な畑は地平線まで続いているようだった。支給された毛皮の防寒具を着てはいたが、まつげや眉毛は凍り、凍傷で足の指先が壊死(えし)して切断を余儀なくされた者もいた。使わなきゃ損とばかりに働かされ、寒さと空腹、重労働で栄養失調になったこともあった。羽があったら飛んで帰りたいと切に思った。

 帰国が決定し、1948年3月にシベリア鉄道に乗った。目的地のナホトカに着くまで、日本に帰れるか半信半疑だった。港に着くと、他の収容所から集まった日本人が大勢いた。やっと帰れると思った。二度とない青春時代を過ごしたシベリアの地を後にした。

 今ではほとんど当時のことを思い出さないし、記憶も薄れている。それが悲しい。終戦から75年がたち、戦争の語り部は減っている。どうにか伝え残していかなければいけない、戦争体験のほんの少しでも若い世代に知ってほしい。そう思い、6年前に手記を書き上げた。勝っても負けても悲惨な結果が待っている。そんな戦争を二度としないようにと強く願う。

 ⇒母子が体を張って守った嶺北忠霊場

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