「母親たちが体を張って守ったおかげで、忠霊塔を残すことができたと言っても過言ではない」と語る岩堀修一さんと忠霊塔=8月6日、福井県鯖江市水落町1丁目の嶺北忠霊場

 福井県の鯖江市西山公園北側には、戦没者2万5165柱が眠る嶺北忠霊場がある。終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)から忠霊場内にある嶺北忠霊塔の解体命令が出たが、戦争で夫を失った母親と子どもたちが手をつないで反対し計画を阻止した。近くに住み、母と共に反対運動に参加した岩堀修一さん(87)は長年、忠霊場の維持管理の中心を担ってきた。「英霊を供養し、後世へと守っていかなければならない」との思いからだ。

 鯖江市神明地区には、鯖江歩兵第三十六連隊の約2千人が常駐していた。戦争の時代はとにかく貧しく、私たちの家族も食事は我慢して最小限にした。家には幹部らが下宿しており、ときどき連隊の中で余った食事を「僕、これ食べ」と持って帰ってくれた。

 彼らが忠霊塔へ行き、真夜中に「今日でお別れや」と告げて戦地へ出発した時は、これが最後の言葉なのだと思った。窓のカーテンをめくり、母親と一緒に手を振って見送った。

 終戦時は小学6年生。生活は本当に厳しかった。学年が変わる時、ノートの文字を全部、消しゴムで消して、後輩に引き継ぎ再利用したほどだ。「イナゴを捕る」という宿題もあった。カタツムリも田んぼのタニシもよく食べた。

 終戦後、進駐軍がジープ型の車で来て、陸軍墓地だった忠霊場や1941年に建立された忠霊塔を視察していた。福井軍政部指揮官のハイランド中佐は塔まで歩き、写真を撮っていた。

 その後役場を通じて、進駐軍から遺族会に忠霊塔を解体すると通知が来た。戦争で夫を失った女性たちは「お国のために命をささげたお父さんが眠っている。塔を壊されてたまるか」と猛反対した。進駐軍が忠霊塔に近づかないよう、100メートルほど手前の参道入り口で手をつないで“バリケード”をつくった。2週間ほど続いただろうか、毎日50人ほどいたと思う。交代で建物に寝泊まりし、24時間見張っていた。中学生だった私たち子どもも、学校から帰ると走って母の元へ行き一緒に手をつないだ。

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 進駐軍は体を張って阻止する姿に感心し、解体を見送ったという。アメリカ人を恐ろしい存在だと思っていたが実際は優しかった。「ハロー、ハロー」と呼ぶので恐る恐る近づくと、子どもたちにあめ玉やチョコレートを笑顔でくれた。

 私は幼い頃に戦死した父の顔も知らないが、忠霊場には父も含め2万5千柱以上が眠っている。敷地は7200坪あり、日本一と言われるほど広くて立派な忠霊場だという。50年以上、暇さえあれば草刈り、清掃をしてきた。それは、貴重な命をささげてもらった感謝の気持ちは忘れない、少しでも供養しなければ、という思いからだ。死にたくて死んだ人は誰もいないと思う。忠霊場の草刈りや県平和祈念館の維持管理を続けてきたが、高齢となり後継者がいない今、不安は尽きない。

 平和で何不自由のない今の生活は、昔の多くの犠牲の上に成り立っている。若い人たちにはそれを理解していてほしい。

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