校庭をレールのない築堤が横断していた当時を振り返る飛山敏男さん=福井県福井市豊小

 太平洋戦争末期、福井県福井市の足羽山地下にあった軍需工場に資材を輸送するための鉄道が計画されていた。実際に列車が走ることはなかったが、高さ数メートルの築堤は建設が進み、小学校の校庭を横断する区間もあった。撤去までは終戦から1年半以上かかっており、当時勤務した教諭による記録には、軍の強権ぶりや不便さを嘆く言葉がつづられている。

 足羽山には笏谷石を採掘した坑道が多く残る。空爆を避けられるこの大きな空洞を生かそうと、県史によると1944年末、京都府舞鶴市にあった軍需工場「舞鶴海軍工廠(こうしょう)」の移設が決まった。その一つ「福井第五五工場」は45年5月、部分的に稼働を開始。ジェット戦闘攻撃機「橘花(きっか)」の部品を生産したという。

 73年3月発行の「豊小学校百年史」によると、築堤の大きさは「幅員は6間(10・8メートル)、高さは2間(3・6メートル)」だった。レールが敷設される前に終戦となったため「路床だけ堤防のように残され、教育上非常に支障をきたした」とされる。

 46年4月に赴任した男性教諭は「百年史」への寄稿で「校庭の東西に堤防が貫通していて、体操のために校庭に出る時にはその堤防を登り降りしなければならなかった」ことに驚いたとする。「海軍は市当局や学校側に無通告。請け負った業者は軍の命令だとばかりに平気な顔で土石を運搬し、積み上げていったという」「体育の授業や子どもらの遊びに不便この上も無い」「校長が、度々(たびたび)市へ陳情してもなかなかラチがあかなかったようだ」などと記している。47年春に撤去されたと結んでいる。

 当時6年生だった飛山敏男さん(87)=福井市=は八幡山近くから校舎と校庭を分断するように東西に横切る築堤を覚えている。「レールを敷いて汽車が走ると聞いたが、軍のことは秘密だったからか詳しく教えてもらえなかった。運動もできないし困ったなと見ていた」という。「体育の時間は畑仕事に変わり、校庭でナンキン(カボチャ)を育てた。近くの牧場から牛のふんを運び、つらかった」と当時を振り返った。

 国土地理院が公開している46年10月米軍撮影の航空写真には、築堤が八幡山の北側に沿って東西に延び、足羽山の南西側に達している様子が鮮明に捉えられている。

 鉄道友の会福井支部の渡邊誠さん(70)=勝山市=は「工事が進みながら列車が走らなかった未成線は、県内ではほかに昭和初期の吉崎鉄道(現あわら市)ぐらいで珍しい」と指摘する。軍が事前に隣接する田んぼを校庭の代替地として確保した形跡はなく「校庭に線路が敷かれかけたのはやむを得ないが、代替地を一顧だにしなかったことが軍用鉄道の特色。市民生活が犠牲になることをいとわないのが戦争。二度と繰り返してはいけない」と話している。

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