「玉音放送を聞いた時の空虚感は忘れることができない」と話す小林久子さん=福井県福井市内

 小学校の朝礼で、校長先生から真珠湾攻撃が始まったことを聞いた。食料に困り、家族は着物を売って物々交換した。それでも小林久子さん(87)=福井県福井市=は勝利を宣伝する大本営発表を信じて疑わなかった。1945年8月15日、終戦を告げるラジオの玉音放送を自宅で聞いた。「悔しいとか悲しいとかの感情は無かった。まさに空虚」。あの感覚は75年たってなお忘れることはない。

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 勝山市に住んでいた小学3年生の時、戦争が始まった。私たちは日の丸の旗を振り、万歳三唱をして近所の大人たちの出征を見送った。出征兵はうれしいような苦笑いのような表情だった。私の父は、京都府の軍需工場へ行った。

 男性の先生は減り、女性の先生ばかりになった。先生の言葉は男言葉になっていった。「やりなさい」が「やれ」、「しなさい」が「しろ」、「並びなさい」が「並べ」になった。

 食料難が深刻になった。祖母や母は、着物や帯を売って野菜などと交換した。サツマイモの葉や茎を雑炊やおつゆに入れて食べた。おいしくなかったけど「嫌だ」とは言えなかった。みんなが我慢していた。

 学校では、農作業などの奉仕活動が増えた。遠足代わりに田んぼに出掛け、イナゴを捕って、布の袋に入れた。給食のおかずになった。資材用にと、山の斜面でスギの植林もした。終戦間近になってくると、授業はなくなり、教室で落下傘を作った。私は日の丸の鉢巻きをつけて、生地のアイロンをかけた。

 出征兵を見送るより、英霊を迎えることが多くなった。出征兵の遺影を持った家族が道路を歩き、私たちは遺影が通り過ぎるまで敬礼した。大本営発表は「撃退」から「玉砕」になっていったが、勝利を疑わなかった。

 45年7月19日夜。空襲警報が鳴り響いた。九頭竜川にかかる橋の下に逃げた。「ドーン、ドーン」という地響きとともに、西の空が赤くなった。米軍の爆撃機が私たちの真上で旋回し、再び西へと向かった。真っ赤な空の下で、亡くなっている人、逃げ惑っている人がいると思うと悔しくて。

 玉音放送は自宅で聞いた。悲しいとか悔しいとか、涙が出るとか、怒りとかではなく、心の中は空っぽ。昨日までは、一体何だったのかと思った。

 教科書は黒塗りになり、ローマ字の勉強が始まった。戦争で男性の数が減って当時は「トラック一杯の女性に男性一人」と言われた。女としてどう生きるかを考えた。

 75年がたち、日本人はすっかり変わった。言論、表現の自由というが、制約がなさすぎてブレーキが利かない。言い過ぎ、やりすぎ、自己主張が強くなっている気がする。

 祖父は戦時中、鉛筆、ノート一つとっても「汗を流して作った人のことを考えろ」と言った。戦時中に育った私たちは物を大事にするし、捨てられない。物があふれる時代に育った若者には理解できないかもしれない。戦争の時代はつらかったが、たくさんの人たちが助け合って生きていた。物だけでなく、人の心を大事にする時代でもあった。

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