【越山若水】直木賞作家で歴史・時代小説家の葉室麟さんが亡くなった直後に出版された単行本がある。遺作の一冊ともいえる「天翔(あまか)ける」(角川書店)で幕末の福井藩主、松平春嶽を西郷隆盛や坂本龍馬らとの関わりから描いた長編だ▼小説のタイトルは、春嶽の辞世の句「なき数によしやいるとも天翔(かけ)り御代を守らむ皇国(すめぐに)のため」から引用している。葉室さんは春嶽と西郷をこう描く。春嶽は国を守ろうとの志を持ったが、成就できずに苦悶(くもん)したが、西郷も同じ志を捨てぬまま西南の役で世を去る。2人の志には天を翔るようなものがあったと結ぶ▼今年は春嶽没後130年に当たる。江戸の狂歌はよく知られている。「春嶽と按摩(あんま)のような名をつけて上を揉(も)んだり下を揉んだり」。公武合体、開国和親を政治信条として貫き調整、融和に苦慮するさまを皮肉られたものだ。葉室さんが描く「成就できずに苦悶」に通じる。明治政府では公武合体は葬られ薩長閥の政権を去る▼多くの文献を残しており幕末の大名では例を見ない。随筆や日記など千冊を超える。毛筆のタッチを好んだが、インキやペンも愛用し、手記の「逸事史補」はペンで記されている(人物叢書(そうしょ)「松平春嶽」)▼「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜(よろ)しき所に従ふ」。春嶽が残した「偶作」七言絶句の冒頭。教養人として謙虚で誠実な人柄が凝縮されている。

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