2002年10月に24年ぶりに北朝鮮から帰国した地村保志さん(右)と手を握り合う保さん=羽田空港

 署名用紙を払いのけられても頭を下げて頼み込み、街頭に人がいなければ近くの民家の呼び鈴を押して署名をお願いした。拉致被害者、地村保志さん(65)の父、保さん=享年(93)=は息子の救出に半生をささげた。共に活動してきた関係者は「息子が帰るまではと大好きな酒を断ち、全国を歩いた。親の執念だった」と、その死を悼んだ。

⇒地村保さん死去93歳

 保志さんと富貴恵さんが拉致されたのは1978年7月。ともに23歳だった。翌月には富山県高岡市で、若い男女の連れ去り未遂事件が発生。現場には手錠や猿ぐつわが残されており、保さんは富山に行って関係者に話を聞いた。世間は若者の失踪という捉え方だったが、保さんは当初から北朝鮮による拉致を疑っていた。「保志は絶対に生きている」が口癖だった。

 97年に結成された拉致被害者家族連絡会には当初から名を連ね、国に対しても救出を求め続けた。98年には救う会福井を設立した。

 明るい性格で分け隔てなく記者とも接したが、当時の新聞は拉致について「疑惑」と表記しており「疑惑やない。事件や」と異を唱えた。「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」という国名の表記にも「民主主義やない」と反論した。

 署名活動の傍ら、寝たきりになった妻のと志子さんを献身的に介護した。息子に会えず涙する妻を「必ず保志は戻ってくる。頑張れ」と励まし続けた。

 保志さんが帰国を果たす半年前、と志子さんは75歳で亡くなった。その時、保さんは拉致の解決を求め訪れていた韓国からの帰路の途中で死に目には会えなかった。当時の小浜市長で葬儀に参列した村上利夫さん(88)は「保さんの落胆は見るに忍びなかったが、息子を取り戻すという気持ちは揺らぐことはなかった」と振り返る。

 2002年に保志さんと24年ぶりの再会を果たしたが、帰国できたのは保志さん、富貴恵さん夫妻を含め5人だけだった。04年には3人の孫も帰国したが、その後も署名活動を続けた。保さんの半生をつづった著書「絆なお強く」の共著者、岩切裕さん(74)は「私はハッピーエンドの本にしたかったが、保さんから話を聞くほどに、いまだ解決していないという苦しみ、悲しみが伝わってきた」と話す。

⇒地村保志さん、富貴恵さんコメント全文(D刊)

 著書の最後に保さんは「国をあげての世論の力で政府は動きました。そして、さらにその波が国際世論をも動かし、拉致問題解決へと向かうことを願っています」と記した。古里で家族がそろっても「被害者全員が帰ってこなければ、解決やない」と声を上げ続けた人生だった。

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