◆犬も歩けば棒に当たる。私が歩けば仕事に当たる

用事があって外に出ようと玄関に行くと、にゃろ(我が家の猫)のトイレが目につきました。‘あっ忘れていた!トイレの始末をしないと’と思って、トイレの始末のためにシャベルを取りに玄関の戸を開けました。すると、目に入ってきたのは、外玄関に広げた紙の上に、びっしりと落とされているつばめの雛たちの糞です。取り替えて間がないのに…。そう思って、猫のトイレの始末をして、新しい紙を取りに行きました。

親鳥の糞はそれほどではないのですが、雛たちの糞は柔らかく、今年も雛が5羽ほど孵っているようですので、その量も大変です。3月末には、ツバメの歌うような長いさえずりのご挨拶?があったのですが、6月14日の今になってもまだ雛たちは、小さな巣の中にまるで膨らスズメのように膨らんで、身動きもできない状態でびっちりと五つ並んで親鳥が来るたびにピーピー鳴いているのです。でも巣立ちは間もなくのことでしょう。

今年は、昨年に比べて少し遅いようです。雛の汚れた紙をゴミ箱に捨てるために外に出ると、なんとそこにはあの白い羽のあるカラスが道路にじっとしていて動かないでいるのです。

‘まあー カー君。そこにずっといたの?’(勝手にこう呼ぶようになりました)そうなんです。毎日のように朝早くから畑の方でカラスの鳴く声が聞こえてくるのです。呼んででもいるのでしょうか。しかし、なかなか朝からは畑に行ってはいられません。するとしびれを切らしてか、必ず家までやってくるようになっていたのです。いつもは、家のそばの電柱か、近くの家の屋根で待っているようなのですが、今日は、斜め前の向かいの家の道路の中央より少し端寄りにいるのです。通る車にも動じずにじっと立ち止まったままにいるのです。そんな姿を見ると、なんだかいじらしくジーンとしてきます。

しかし、子育て中のツバメにとっては猫や、からすがやってくるのは大変なことのようです。いつもの長い歌のようなさえずりをさえずるどころではなく、ピピピピピピと必死になって雛たちを守るため、あの小さな体で何倍もある猫やカラスに向かって低空飛行で、何度も何度もその場を離れるまで威嚇するために立ち向かっていくのです。ひょっともするとあの小さなくちばしで小突いたりもするのでしょうか、うちの猫の鼻が傷ついていたのは…。あの頭上すれすれの低空飛行でカラスも頭上の蠅でも払うように何かを払うようなしぐさをしていたのは頭を小突かれでもしていたのかも…。

そんな燕を不安がらせないためにもカラスたちをツバメの巣から早く遠ざけることです。からすを遠ざけるためにもとりあえず畑に行くことにしました。

私が長靴に履き替えて畑に向かって歩き始めると、いつものように、少し先に立って、近くの家の屋根、そして近くの電柱、畑の横の家の屋根、そして畑の前のいつもの定住地点である電柱にとまって待っているのです。

でも今日はいつもと違っていました。後になって、2羽のカラスがカー君を追いかけるようにやってきたのです。多分1羽はいつものカーコさん(これも雌か雄かもわからないままに勝手に付けた名前です)。そして1羽は少し小ぶりなので、‘ひょっともして、あなたは 子がらすくん?’ そして、屋根の上にとどまってまだ下には降りて来ない小からす君のところにせっせと餌を運んで与えているのを見て‘あなたたちもやっぱり家族だったのね。’今回は小がらす君の初お目見えでした。

でも専門の方にお聞きすると彼らはあくまでも野生の動物であるということを忘れてはならないとのことでした。

というわけで、目先の仕事に次々と捉われているうちに、最初何の用事で玄関に行ったのかを忘れてしまい、しかも、思い出すのはずっと後になってからということも近年では日常茶飯事になりつつあるのです。

それから数日たっての昨日(24日)、雛たちだったと思われる小ぶりのツバメが5羽と2羽の親ツバメでしょうか、ずらりと家の前の電線にとまっているのです。16日の朝には巣立ちしたのか、巣にはいなかったのです。そしてそれから2日ほどは夜には巣に戻って来ていましたが、それ以来雛たちの姿を見ていなかったのです。

今年は昨年のように、巣のかかっている玄関目指して円を描きながら舞い込むかのように、それでいて舞い込むことはなく、ただ玄関の前を何回も何回も輪を描くように飛んでいる巣立ちの輪舞?と思われる光景にもあいにく出会えず、ちょっと寂しい巣立ちだったなあと思っていたのです。でもそろって電線にとまっている光景に、‘あっ! またそろってきてくれていたのね。ありがとう’と思わず言葉が出てしまいました。そして彼らにはいつも‘人間にも勝るところがあるなあ’と思えてしまうのです。(このツバメの輪舞?は、駐車場にツバメの巣があるという近所の人も、ツバメが巣立つ時には やはり同じ光景が見られると話していました)

からすの方もからすの方で、畑に向かう私の後先になって追ってくるのは、それまでの1羽ではなく、子がらすはどうも2羽のようでした。4羽での移動となっていました。ここでもギャワーギャワーと餌をねだってか泣き叫ぶ‘子がらす育て’もなかなか大変なようです。

作ってもほとんどスルーして毎日一体何を食べているのか皆目わからない仙人的存在の高校生の孫の食べ残しはいくらでもあるのです。いつも家の近くに来ていて、ただひたすらいつまでも待っているカー君の姿を目にすると、しかも、ほかのカラスはとっくにねぐらに帰ってしまっていても、夕方遅くまで近くでひたすら虫探しをしているこの‘子ガラス育て’で大変な時、心を鬼にしてまで何も与えずにいるのも辛いものなのです。

◆野菜の育ちと子どもの育ち

実際に作物を作ったり、作る上での農法を少し学んだりしていると、作物を育てるその育て方においてもいろいろな方法があるということを知りました。一般的に行われているのは慣行農法と呼ばれている農業だそうです。慣行農法では、作物が大きくよく育つために化学肥料が使われています。虫が付いたり、病気になったりしたときには農薬が使われています。農薬は虫が付いたり、病気になったりしたときだけではなくその予防としても使われているそうです。また畑に草を生やしておかないように絶えず草取りをします。生えた草をとるだけではなく、あらかじめ種を蒔く前に除草剤をやっておいて草が生えないようにしておくことも一般的に行われていることだそうです。そして作物を作る前には当然必ず畑は耕されるのです。

一方において自然農法と呼ばれている農業があります。『自然農法でおいしい野菜づくり 草、虫、土の力を味方につける』(GAKKEN) によると、自然農法では、自然が野菜を育てるための三原則というものがあるそうです。

1.耕さない

自然農法では耕しません。これが基本だというのです。自然農法の畑は、土の中に微生物などを活かし、増やし、山の中などの自然と同じ状態にしようというのが最初の目標だというのです。そのためには土の中をかき回してはいけないというのです。

トラクターなどでかき回したりせず、そっとしておけば、そこに様々な生き物が住むようになり、菌や、微生物、小動物、虫などがやってきて、生まれ、生物の多様化に向かうというのです。土の中に生物が増えて動き回るということは、細かい範囲で耕すことになるのだという。食べたり、糞をしたりという活動は、土を作ることになり、つまり、人間が耕さなくても、生物が土づくりをしてくれることになるのだというのです。植物の根が耕してくれることもあるというのです。

耕さないといっても、一切表土をいじくってはいけないという意味ではなく、土の上下が入れ替わるほど深く掘り返してはいけないということだそうです。

2.草を活かす

草を敵視してすべて取ってしまうのは、植物界のバランスを崩すことにもなり、草があることで、虫や風、急激な温度変化などから守ってくれることもあるというのです。育てる作物が養分を奪われたり、草の日陰になってしまっては困るので、草を刈る作業はするというのです。しかし、そのときに、草を根こそぎ引き抜くことはせず、根元で刈るようにして、地中の根を残すようにするのだそうです。

刈り取った草は畝に寝かせて保温や保湿のマルチとして利用したり、そのあと、畑の一部になって土になるというのです。命を尊重する。自然農法のだいじな部分でいろいろな生物が棲む環境の中で野菜を育てるのだということです。

3.持ち込まない

畑には、その畑でできたもの以外は持ち込まないのが原則だという。「持ち込まないもの」というのは、まず農薬と化成肥料だそうです。そして化成肥料以外の肥料であっても、それをたっぷり入れることはしないというのです。自然界では起こらないことだからだというのです。

そのために、草を活かし、生物を増やして土を作り、大量の肥料を入れなくても野菜が作れる畑にしようという考えだというのです。

農薬は当然やりません。肥料も畑の状況をよく見ながら特別に必要な時以外にはなるべくやらないのです。そして、なるべく畑を耕さない。草もその成長を妨げない範囲で刈り、その刈った草で畑の表面を覆い畑は裸にしてはおかないのです。根は地中での微生物の餌となるので残して取らない。そして種を蒔いたり、苗を植えたときにも根の力を弱めてしまわないように不要に水をやらないなど、一見放任のようでありながら決して放任ではなく、必要なことにはきちんと手をかけながら、不必要には手をかけない、あくまでも野菜を作るための農法なのだというのです。

子育てにおいてもさまざまな人によってさまざまな子育て法が唱えられています。が、大きく分けると慣行農法と自然農法の違いに絞られて考えられるようにも思われるのです。

自然農法での作物は、不要に肥料を与えることなく、不要に草を取ったり、殺虫したり、畑を耕さないなどの過度な手入れはなされないという、一見育つ作物にとっては、過酷な環境のように思われる環境において育てられます。そうした地上や見えない地下においての環境の中で、さまざまの微生物や生物の共存共生の働きによってかえって、その環境が豊かに生命に満ちた環境となり、そのことが、作物が本来有しているものを充分に引き出す生育法となるというのです。

その結果、生命力に満ちた、その作物が本来持っている味が充分に引き出されたおいしく、多少の虫や病気にもめげない強い作物に育つのだというのです。そうした生命力に富んだ強い作物をいただくことはひいては私たちの健康にもつながってくるというのです。

◆自粛生活も緩和されつつあるなかで

今の時代という環境の中で育つ子どもたちの育ちを見ていると、こうした農法によって育てられている作物にも通ずるところがあるように思われます。世の中が便利になればなるほど、子どもを取り巻く社会環境のどの一つを見ても、子どもが育つにふさわしい環境とはいえなくなっていることが多くなってきています。

子どもの育ちだけではなく人間が生きる上においてもいえることなのです。食生活においては、「種」の段階から既に野菜を育てる上で都合のよい人為的加工がなされているといわれています。作物を育てる過程においても、あるいは料理の過程においても目に見えないところで、添加物などさまざまな手が加えられているのです。

そして、コンピューター時代といわれる時代の中で、子どもだけではなく大人のスマホやゲームによる依存症が社会的問題ともなっている時代なのです。ステイホームの自粛も幾分緩和され、畑で仕事をしていると、以前のような子どもたちの元気な声が辺りに響いて聞こえてくるようになりました。

しかし、今回のコロナ感染による長い間の学校の休みの遅れを取り戻すための教育界における様々な対策。オンライン化による授業。入試の在り方の検討など、子どもの学校教育においてもより一層混沌化してきているように思います。

そうしたなかで、本来の人間としての育ちや在りようを見直し、それを実現していこうとすることの困難さをひしひしと感ずる毎日なのです。

畑作りが好きな今度6年生になった子も、天気の続く晴れ間を見て玉ねぎ50個、5メートルほどの畝一列に植えられたじゃがいものその収穫も無事終えることができました。自宅待機の影響もあって思うようには外に出られなかったこともあって、中学生や小学になった姉弟も加わって家族ぐるみでの参加で、これからの畑作りへの期待の話に花を咲かせながらの収穫でした。

そして採れたものを、お世話になっている方や、おばあちゃんたちにも配りたいと言って、配って歩いたそうです。これからも畑作りを続けてやりたいのであれば、もう六年生にもなれば畑作りについて書かれている本を少し紹介して勉強してもらってもいいかなとも思えました。「一つの道を極めればすべての道に通ずるです」。先ずはやりたいことから始めることだと思うからです。

シュタイナーの宇宙進化論では、これまでの宇宙の進化において、精神的悪を人間にもたらしたという「ルチフェル的悪」と物質的悪を人間にもたらしているという「アーリマン的悪」に対して、悪の働きをただ悪としてみなしてしまうだけではなく、それらは地球進化、人間進化の上においてなくてはならない必要なものとして位置づけ、受け止められているのです。

悪の力に対して無意識であるということは悪の力に巻き込まれてしまっていても気づかないという危険性があり、意識化された段階で悪の力は悪でなくなるともいわれているのです。

お母さん方との読み合わせも、始めてから間もなく出来なくなって、長らく待っていて下さったのです。外出緩和を待ってなるべく三密を避けるよう配慮しながら再開しました。まずは室内を避けて戸外がよいとのことでししたが、予定していた公園も使えず、最終的には、狐川の堤防の桜並木の心地よい風の通り抜ける中で行うことができました。

医療に関わる仕事から「人智学的医学に関してその学びをしたい人」。家庭菜園を通して人智学的農法「バイオダイナミック農法に関心がある人」。育児休業中で小さなお子さんがいて「子どもの育ちについてもっと学びたい人」。教育の学びからさらに、「‘語り’についての実践を伴う勉強をしたい人」。医学については、東城百合子さんの「自然療法」について。バイオダイナミック農法については「自然農法」。など日本でも行われている様々な取り組みについても併用して紹介していけたらと思ていると、さすがに皆さん既に知っておられているようでした。

この読み合わせに参加されている人たちの関心の世界はそれぞれに限りなく広がっているようです。どこまで広がっていくことだろうとその関心の世界に興味を持って受け止めつつ、まずは基本に戻って、シュタイナー用語といわれている、たくさんの聞きなれない用語の理解を深めることに焦点を絞って進めて行きたいと思っているのです。

今回のコロナによってもたらされてきている様々なことの本質に目と耳と心を澄ませて傾け、そこから学び、受け止めていくべきことを手掛かりとしてこれからの身近なところでの取り組みのなかで生かしていけたらと思っているのです。

 

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