【越山若水】1822(文政5)年に初めてコレラが長崎に流入し、コロリと呼ばれる。蘭学医緒方洪庵(こうあん)は恐るべきこと虎狼(ころう)のごとくとして、その字をあて虎狼痢(ころり)と表記している▼2度目の流行は58年からだ。ペリー艦隊ミシシッピ号が長崎に寄港し、コレラに感染した乗組員がいたため、長崎で発生して江戸に飛び火している。幕府は翌59年に開国する。「感染症の世界史」(角川文庫)の著者石弘之さんは開国とコレラ流行をこう見立てる。「その(感染)恨みが黒船や異国人に向けられ、開国が感染症を招いたとし攘夷(じょうい)思想が高まる一因になった」▼小浜、勝山でも59年に流行する。小浜藩は病で陰気になっていると町内に大太鼓をたたくよう命じている。勝山藩は流行打ち払いにと大砲を放った(福井県史)。越前市武生公会堂記念館、中央図書館で開催中の企画展でも幕末コレラの資料が展示されている▼豪商松井耕雪の伝記に府中藩校立教館で教授2人が疫病で亡くなったことが記される。市内の医者から寄贈を受けた中央図書館の「格列良(これら)治法再考」はコレラの治療法をまとめた医学書だ。ともに59年の記述があり市中にこの年広がったようだ▼石さんによれば、68年関所が廃止されると人の往来が活発化、感染症がその後相次いだらしい。今日のコロナ禍。県境をまたぐ移動が解除されたが関所の教訓は頭の片隅には置きたい。

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