コレラ拡散防止で集会を禁止した県令が撤廃され、若連中が大祭典を行ったことを伝える新聞記事(福井県保存)

 衛生状態が今ほどよくなかった昔、福井県内でコレラや天然痘などの伝染病が猛威を振るう年があった。1879(明治12)年と1886(同19)年のコレラの流行は激しく、特に86年は県内で6663人のコレラ感染者が出た。「これは当時の福井県の人口約60万人の1%にもあたった」と福井県史はつづっている。

⇒【まとめ】新型コロナ拡大防止へ向けた県民行動指針

 「史料によると、コレラは江戸期の1859(安政6)年にも大流行しましたが、江戸期と明治期では、患者への対応に大きな違いがありました」と県文書館の柳沢芙美子副館長は話す。「明治期には、患者を隔離する対策が取られたことが史料でうかがえます」

 福井県史によると、明治12年の流行後の同15年、県はコレラ発生に備えた手続きを制定。患者は原則として避病院または仮病室に収容すること、発生した家の交通を遮断すること、汚染源の消毒を行うことなどが定められた。

 実際に19年の流行時には、7月6日に県令が出され、人の集まりが禁止された。7月19日には、コレラ感染を広げる水に注意するため水泳の禁止、7月24日には古着の売買などが禁止されている。

 一方、江戸期の安政6年の流行時には、「病の流行のため世間が陰気となっているので町内で大太鼓などをたたき賑々(にぎにぎ)しくするよう」小浜藩が命じた、と県史にはある。勝山藩はコレラ流行を打ち払うため10カ所で大砲計41発を放ったという。社会の雰囲気を明るくすることで、疫病を打ち払えるとしていた時代のようだ。

 明治12年の流行では全国で「人びとは避病院の建設反対、果実・魚介類の販売禁止措置の撤回、患者の避病院反対などを唱えた」と県史は記す。当時はコレラ発生の詳細な原因は分かっておらず、治療法も確立していなかったこともあり、人々が医師や警察の処置に疑念を抱いたという。発生を隠す動きも起きたと県史は指摘する。

 同年、県内では死者のあまりの多さに医師の検疫処置への疑惑を抱いた住民らが検疫所に乱入する騒ぎが起きている。暴動の前日には、感染拡大を防ぐためか地元で捕れた魚の売買が禁止されたため、生活が追い詰められた住民の不満が爆発したと県史にはつづられている。

 「当時から約150年たって時代背景は大きく異なりますが、いま私たちが歴史から得られる教訓はあるかもしれません」と柳沢副館長は教えてくれた。

 ちなみに、明治19年のコレラ流行は、5月29日に県内で最初の患者が発生し、同年11月ごろに終息した。10月28日付の新聞では、人の集まりを禁止した県令が10月26日付で撤廃されたことを喜び、若者たちがのぼり旗を立て、そろいの手ぬぐいを配ってお祭りを開いた様子が報道されている。
 

関連記事