◆花は咲けども

家の近くの狐川沿いの堤防の桜も見頃を迎えました。「今年の桜は例年にも増して、ことのほか美しいように思われませんか?」 近くに住む近所の男の方からさえそう聞かれました。ほんとうに私にもそうおもわれるのです。良き天気にも恵まれたこともあってか、辺りのどの桜も一斉に咲き誇り、はっと息をのむ美しさなのです。あまりに見事なその花の咲き方がこうした時期だからからか、人間界にしばしの華やぎを届けてその不安な日々の思いをしばし忘れて、心を和ませたいという自然界の深い配慮なのでしょうか。しかし、そんな花も今年は自粛を意識してのことか例年に比べて花を見に来る人の数も少なく、こうして見事なまでに美しく咲いている花を多くの人で愛でることができないことへの寂しさも一方には重い思いを伴ってあるのです。

世界中の人々が、不安な思いにかられて沈んでいるこんな時期、ドイツの娘にもこの華やかに咲く桜を是非に届けてやりたいと4月3日、携帯で写真をとってメールで送ったところでした。「桜、綺麗ですね。青くて広い空を写真で見るだけでも福井に帰りたくなります。」と、帰れない今だからこそ桜の写真を見て、一層福井への思いが募るようでした。

3月21日の娘からの、「ホームスクール」という件名で送られてきたメールには、「学校が休みになって、ホームスクールを午前中にしています。」と書かれてありました。孫の勉強を学校に代わって家で見ているようです。ドイツでは、今回、それを、「ホームスクール」という制度として称しているのでしょうか。それまでは仕事があって十分には見てやれないままに見過ごしていた分も「ホームスクール」として、見てやれるので安心出来たり、毎日宿題などで繰り返し練習したりして定着できるので助かりますと書かれていました。子どもを家で見ることの出来ない人はどうしているのかをさらに突っ込んで知りたかったので聞いてみたのですが、それへの返答はいまだにないのです。

ドイツはどんどん外出に対する規制が厳しくなってきていて、パン屋でも一定の間隔を保って並ばないといけません。お友達と会うこともできないので、家族のみで一日一回散歩に出たり、ホームスクールの休憩中に庭で縄跳びをしたりと、なにかと不安なこの状況をできる範囲で楽しさに変えて暮らしているようです。

さすが何においても厳格なドイツだと思われました。

そして、ホームスクールのおかげもあってか、ひらがなで手紙も書けるようになった孫は、私たちにわざわざ絵入りの手紙を送ってくるのです。絵もなかなか上手に描けています。こんな時だから時間もたっぷりあって暇なので、本人が手紙を書きたがっているからだというのです。

◆子どもたちの過ごし方

福井の子どもたちはどうなのでしょう。あんなに必ずといって遊んでいた畑の前の公園では、例の畑作りを一緒にやった近所の子たちの姿は、この休みに入って全くといっていいほどその姿を見かけないのです。今回は、命に関わることですので、子どもたちも、学校の先生やおうちの人の言うことをきちんと守って、一切家から出ないで、過ごしているようなのです。では家でみんなは何をしているのでしょう。

勉強? まさか…。勉強に明け暮れる子、それは特別な子においてではないでしょうか。テレビ? それともゲーム?
いつ感染しても仕方がないという大変な緊張の状況の中で、卒園式、入園式を控えながら、小さなお子さんを預かるという保育園(子ども園)という仕事をかかえている次女にとっては、いつ再開されるかわからない状況の学校の長い休み。だからといって、自分の子どもたちに関わっていられる状況ではないというのです。そういいながらも、日中、誰もいない家庭で過ごす我が子たちのことを思うと放ってもおけなかったのでしょう。

日頃、自分の子どもにあまり関わることを好まない次女も、さすがの今回ばかりは、孫たちを見てほしいと言ってきたのでした。特に、この春からは中学生になる子の勉強を見てやってほしいといってきたのです。

ゲームが大好きで勉強を好んでする子ではないということを常日頃聞いていましたし、男の子だし、年齢的にも果たしてどうだろうという思いはありました。勉強をするために自ら好んで私のところに出向いて来るはずなどはないのです。その来るはずのない条件が見事なまで揃っているとしか思えない中においてです。が、この非常事態です。放っておくことも出来ません。何であれ、まずはやるしかないのです。本人が来ないのであればこちらから迎えに行くしかありません。それでも、宿題や親に言われた課題を一応準備して待っていました。勉強に取り組む姿勢は出来ているようでしたので、こちらからは一切何の指示も出さずに、何をやるのかは本人に任せておきました。そうした中で、少しずつ彼について理解を深めていければと思っていたのです。そして深めた理解に則して進めて行くのが望ましいように思えたからです。

そんな彼の前情報に反して、本人は、実に見事なまでの集中力とスピードで学校から与えられているという課題の勉強に取り組み始めました。そしてあっという間にその一冊を仕上げてしまったのです。その仕上げた課題から彼がどこまでをどのように理解しているのかを確認するために、やった課題を見せてもらいました。娘が言うには問題集の後ろについている解答を見て答え合わせをすればいいというのです。しかし、彼をより理解するためには、そういうわけにはいかないのです。彼がどのように考えてその答えを出したのか彼の理解力を知るためにもきちんと、彼の答えを出すまでの道筋を私自身が確かめないといけないからです。解答の確認をしていると彼の頭の巡りが手に取るように伝わってきて、彼の答えを出すまでの道筋がよく理解できるのです。日頃、娘から聞かされているのとは大違いでほとんど完璧にできているのには私の方が驚きました。

しかし、現代っ子です。年齢的なこともあるのでしょうが、無駄なことは答えには一切ありません。聞かれた答えに単刀直入に答えているのです。私ならついいろいろな面から考えて余計なことを付け加えがちなことも見事に無駄で余計なことは一切ないのです。ああ、ゲームなどの機器で鍛えられてきている現代っ子の思考回路から出されてくる回答はかくあるものなのか。そう思えてしまう程に孫の答え方は非の打ち所がなく無駄がないのです。私などは半ば錆びついた思考回路で、何度も問題を読み直さなければ問題の主旨が理解できず、かえってその答え合わせに手間取ってしまっているのでした。

答えを出すまでの過程を、表現するとすれば、孫の全く私情など介入する余地のない「無機的解答」と、「有機的解答」といえば聞こえはいいのですが、私情が挟まれ過ぎて混沌の中から出された答え方の違いとでも表現した方がいいのでしょうか。

何かお昼を食べさせてやりたいと思いましたが、「要らない」というのです。返答もいつも単刀直入です。しかも最低限度の単語で、余計なことは一切言わないのです。ただ一刻も早く家に帰りたいだけのようでした。家に帰ればピザがあるのでそれをチンして食べるというのです。その前にやりたいゲームが待っているようなのです。その思いを大事にしてすぐに連れて帰りました。

そんな状態で、土、日や特別の日以外はやってきて、勉強をしましたが、娘からの課題の中学の予習勉強に入った途端、本人にとっては内容的にも少し抵抗を感じる内容でもあったり、予習という本人にはまだそれほど必要性を感じない勉強だったりしたからなのでしょうか、もう来たくないといって、ちょうど7日間来て終わりになりました。後は、叱られながらでもあるのでしょうが、また、家でのゲーム中心の思いのままの暮らしなのでしょうか。

我が家にもスマートフォンに明け暮れて手に負えない状態の高校生の孫もいるのです。そんな孫たちのこの長い休みに付き合いながら、つくづく彼らにとって学校での学びとは一体何なんだろうと思ってしまうのです。誰のための、何のための学びなのか。学びが自発的な自分のことの学びとはなっていないようなのです。学びに喜びが感じられず、これまでのしなければならないというその義務感からの学びの代償に、ゲームやスマートフォンに明け暮れても飽きない毎日となってしまっているのでしょうか。

本当は学びとは喜びとなりうるのです。それが各自において自らの自発的に学びたいことであったり、やりたいことであったりすることであればです。

この休みが無事明けて学校が始まった時、これまで通りの学校生活や、学校での学びがまた何事もなかったように再開されるのでしょうか。

なかば入試のための勉強になってしまっていたり、学んだことは必ず試験で試されることが当たり前の学習が中心であったりする学校生活に子どもたちも、これまでのようにまた何の違和感もなくまたついていくのでしょうか。

この非常事態を通して、学校教育のせめてその一部の在りようにおいてでも、子どもらがそれぞれに自ら学びたい、勉強したいと思える一つの課題を持ち、そうした自分の学びたい課題をテストという制度によって試されることのない分野として展開していけるような、学校教育における一部の変革が望めないのでしょうか。

今回久々に学校からの子どもの学習課題のワークを手に取り開いてみると、日常の大人の私たちにとっての学びとは違って、これからの人生の学びの基本ともなるであろう知識を問う問題であったり、それ故に無機的な傾向になりがちであったりする問題に向き合うことになります。まずその問いかけの意味を有機的に理解することからの大変さを小学生の内容でありながら強く感じたのです。そうした問題に対してぱっとひらめき、淡々と答えている子どもたちの在りように改めて頭が下がる思いの一方、今後の学校教育でのこうした学びの継続を思うとき、‘子どもたちこのままで大丈夫なのだろうか’とつい、子どもたちの生きる力に対しての危惧が生じてくるのでした。

◆自然界では

今年は、ツバメの飛来はことのほか早く、3月下旬には家の前の電線にとまってしきりに、飛来のご挨拶でしょうか、例年のようにチュチュル チュチュル チュル チュル ジーと長いご挨拶?のさえずりをさえずっていました。

そして3月も、少し暖かくなって、じゃがいもを植えるための準備に畑に出ると、またカラスがいつものようにどこからともなく畑に舞い降りてきて、私の傍らで虫などをつつき始めます。時折どこかに飛んで行くので、もうどこかへ飛んで行ってしまったと思っていると、トコトコ トコトコと足音がしてまた舞い戻ってきているのです。

今までは気が付かなかったのですが、やってきていたのはいつも同じカラスのようでした。それは、右側の羽に一筋の白い羽があることが分かったからです。

畑で仕事を始めると、ほんの1メートル近くまでやってきて、警戒心は持ちながらもそれでも逃げようとはしないのです。そしてその至近距離もだんだん狭められてきているようです。白い羽のカラスと時々一緒にいて、おこぼれをもらったり、白い羽のカラスがやってこない留守を狙ってか、畑にやってくるもう1羽の少し小ぶりのカラスもやってきていることがわかりました。このカラスは、さらに警戒心がないようで、私が畑に持って行ってちぎって置いたパンをほんの間近にまで食べに来て、食べた後は、その場で足を折って畑にうずくまり、そのまま目をくりくりさせながら、可愛い表情でずっと長い間(10分以上も?)私の側から飛び去ろうともしないのです。これには驚きました。私は目が明瞭には見えないので、こんなにも人なつっこいのは、以前から来ていたのもやっぱりこのカラスたちでは? 実際にはもう長い付き合いになっているのではないだろうかとも思えてしまうのです。

そしてまた新たに気づいたことなのですが畑に行く時間が遅くなると、隣の家の屋根までやってきて一羽で、あるいは二羽で、しきりに“があがあ”と鳴くのです。カラスによってその鳴き声も少し違うようです。畑に行かなかった日など、ふと思いだして行ってみるとちゃんと畑で待っているのです。

雨が降りしきるなかでもまさかとは思ったのですが気になって行ってみると、畑の近くの電線にとまって、待っていたようで、すぐに畑に舞い降りてきたのは白い羽のカラスでした。

カラスは夕方になると大勢のカラスと一緒に巣に戻っていくものだと思っていましたので、辺りが薄暗くなるまで畑にいることの多い私の側にまだカラスがいるのに気が付き、‘まだいたの?もう帰らないといけないのでは?’と驚いて声をかけたりするのです。それでも私の側で虫を探したりして遅くまで付き合っているのです。

仕事を終えて帰ると、近所の家の屋根のアンテナに先回りして止まって待っているのです。空からすべてお見通しのようです。‘あなたはいつになったらどこへ帰るの、仲間のカラスたちはもうとっくに帰ってしまっているよ。’と声をかけずにはいられないのです。一体どうなっているのでしょう。

ですから家にいて、どこかからカラスの鳴き声が聞こえてくると‘ああ 呼んでいるようだ。’と、つい思ってしまうようにさえなってきているのです。

今、人間界は、人と人がつながり合いたくてもつながってはいけない状況の中で、野生のカラスでもカラスの方から、人間につながりを求めてやってくる。こんなことが実際にあるのですね。小学生の子たちが来られなくなったから代わって?早く畑に来るようにと呼びにでも来ているのでしょうか。そして‘ほら!カラスが呼びに来ているよ’と娘にも笑われているのです。

鳥インフルのことなどもつい頭をよぎってしまったり、カラスも野生の生き物ですのであまり餌づけはしない方がいいようにも思われるのですが、手ぶらでは畑に行けない思いにもなりつつあるのです。これからカラスについても少し勉強しないとカラスについていけないようです。

そして、今年はあんなに美しく見ごろの長かった桜も、今では既にすっかり散り、4月の半ばをとっくに過ぎてしまっているのです。

東日本大震災時のようには頻繁ではありませんが、こんな状況ですので、お互いの安否を尋ねたり、人智学的立場からの、あるいはいろいろな立場からの、私たちの受け止め方や在りように対する情報も送られてきているのです。周りでは、努めて殺菌力のあるものや、体を温め、免疫力を高めるものを摂るようにというという食養への心がけについても言われるようになっています。

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